Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

2002年 10月30日

チベット高原初等教育・建設基金会会報

 第05号(夏号)

THE GE-SANG FLOWER

ゲーサンメト

・2002年基金会要旨・

@ 基金会が今年の4月26日東京都から特定非営利活動法人として認可され、法務局の登記が済み、5月22日に特定非営利活動法人 チベット高原初等教育・建設基金会が正式に設立しました。

A 第3回目の小学校建設予定地視察の際、小学学校建設金第一回分として理塘県知事の四郎澤仁(スーラァンツェにェー)氏に直接手渡しをしました。

B ホームページアドレスは「http://www.gesanmedo.or.jp 」です。いま制作中、できあがってからお知らせします。

NPO法人としての活動一層拡大

烏里 烏沙 

 基金会をたちあげてから一年間半になる、はじめは任意団体のかたちとして、小学校の視察をはじめ、チベット現地体験や、写真展、バザールなどを通して、チベットの文化及び実態を紹介して活躍してきました。会員の皆様のおかげで、青写真がだんだんみえてきた。

皆さんから預かった善意の募金五十万円を小学校建設金として理塘県知事・四郎澤仁氏に直接手渡した

 基金会が予定通り今年の四月二六日東京都から特定非営利活動法人として認可され、五月二二日に特定非営利活動法人チベット高原初等教育・建設基金会が正式に設立しました。

定款に明載した通り、基金会は特定非営利活動に係る事業として、次の事業を行う。

 一 チベット高原に小学校を建設及び運営に関する事業

 二 チベット高原を中心とする中国西部少数民族の初等教育に関する資料の収集と調査研究

 三 チベット高原を始めとする中国西部との文化交流と現地体験事業

 四 当地域に適した有能な教師養成の方途研究と関係機関への提言

 五 初等教育を受け得なかった児童・青少年を主対象とする教育の研究と試行

 六 チベット高原の自然・社会環境調査と保護・改善への協力

 七 前号に掲げる事業を遂行するために行う関係機関・団体との連絡・協調

 八 前号に掲げる事業を遂行するために行う必要な資料・著作等情報の発信事業

 九 その他本会の目的を達成するために必要な事業

 事業として二〜九はわりと簡単ですが、一の小学校を建設及び運営に関する事業については、いま基金会にとっては一番大きな難題である。この難題をどういうふうに乗り越えるか、今後の課題でもある。

 先日、基金会に興味を持つ友人の友人がメールを送ってきて、次のようね質問がある。

 「どうして彝族ではなくチベット族の支援をされているのでしょうか?」

 わたくしはチベット族ではないことは事実ですが、彝族、チベット族、漢族はわたくしにとってどちらも親しく感じる。わたくしは雑誌にも「わが故郷チベットに小学校を」の文章を発表したが、正確にいうと、小学校を建設する場所はわたくしの故郷ではない。どうしてあそこに小学校をたてることを選んだか、理由は明確、あそこはもっとも厳しい地域で、これまで勉強する場所がないため、住民たちの多数は文盲であり、子供達は勉強することがもっとも必要である。ある方の質問で

 「小学校は政府が作ってくれないの?」

 それは、たいへんいい質問で、たしかにいまの中国は経済の成長率が世界一高いとは言え、でも、それは一部の地域に限られている、特に、中国西部の厳しい地域は想像以上にまずしくて、現代の急速な変化に取り残されている。中央政府はかなり力いれて、民族地域を支援している。中央政府以外の地域も、一対一の形でチベット自治区を援助している。例をあげると、北京はラサを、上海は林芝、山東省シガツィを援助するなど。新中国が成立して以来の五〇年の間、チベット自治区だけで政府及びほかの省市から、平均毎年十億元の援助を受けている。それはニ〇〇万の住民しかない地域にとっては、おどろくほど巨額な資金となっている。でも、やはり、日本の面積の六倍をもつチベット高原は広いため、支援が全然もらえない厳しい地域がまだまだ残っている。

 私たち基金会が小学校をつくる場所も、支援が全然もらえない厳しい地域の一つである。これまで、小学校建設現場である曲登郷へ二回も視察し、学校を建てることについて、五回に渡り現地の政府及び教育局要員たちと話し合った。特に、今年の七月の小学校視察の旅は、私たち基金会内部の事務局のことで、うまく運営できなかった原因もあったり、向うとの約束したことを実現できなかった。そのことで、私たち基金会が変なグループと思われたのである。もちろん、私たち基金会のことが誤解されてしまったと思う。いまの基金会が一番たいへんな時期なので、わたくしも基金会の役員たちも一所懸命に頑張っている。基金会会員の方々、そして、チベットに小学校をつくることに興味を持っている方々、あなた方のご支援、ご協力と私たちへのご理解を、お願いしたいと思う。

理塘県街の中心地に建設中の寄宿舎付き小学校の概況        小林進 撮影

 小学校建設の資本金として、今年の七月に小学校視察の際に、基金会の理事の渡辺千昭先生に皆さんから預かった善意の援助金五十万円を持ってきてもらい、わたくしが小学校建設資金の第一回分として理塘県知事の四郎澤仁(スーラァンツェにェー)氏に直接手渡しをしたのである。基金会のこれまでの会員数は七八名(正式に申請した)で、七八名会員の会費全部充当しても三九万円に過ぎない、五〇万円を持っていくだけでも大変ことかもしれないが、私たちが小学校を建てるのに必要な目標金額の八百万円まではまだまだ遠い。

 会はいま、いろいろ解決しなければならない問題に直面していて、今週も理事会が行なわれた。議案については:

1.会費請求(再請求)について

2.外務省支援金の調査と研究及び郵政省の支援金について

3.会報の発行とホームページの登載

4.会員拡大活動(和光学園祭など)及び基金会を紹介するパフレットの作成について

5.各イベントの責任者の実施について  

6.収益事業の検討について

 私たち基金会は外務省から受ける支援金の条件を満たしていないところもあるので、とりあえず、試してみること。理事会はほかにもいろいろ検討した。

 夏に現地を視察した時、小学校建設について理塘県知事の四郎澤仁氏からいい提案をいただいた、曲登郷に小学校をつくるには約八百万円をかかるが、現在、私たち基金会の状況では、来年まで、それだけの資金を集めるのが厳しいと思われる。提示されたプランは、いま理塘の街の中に教育試験区がつくられている。曲登郷の子供のために教育試験区の一教室と寄宿舎を購入して、曲登郷の子供たちを理塘に呼んできて勉強させる方法も考えられるというのである。それにしても約四百五十万円かかる。基金会の今後の活動としてはどうやっていくか、二つの方法を検討の上、どちらかに絞って目指して、目標として頑張って行きたいと考えている。

 

東チベット紀行 仙境を行く

渡辺 千昭 

 本文は山岳写真家渡辺千昭氏が二〇〇〇年九月一五日から九月一九日までの『山梨新聞』紙面に五回連載でカラー写真と共に発表したもののうち文章のみを抜粋転載したものである

聖なる山――理塘ゲレ雪山(標高6224メートル) 烏里 烏沙 撮影

@ ゲレ雪山山群

民族の心のよりどころ

 中国四川省西南部の辺境に位置するゲレ自然生態保護区は、標高四千〜六千メートルの高みに、独特の雪峰、氷河、湖沼、渓谷、滝、草原、原生林などが複雑な地形を形成し広がる山地。昔ながらの豊かな自然がそのまま現存して息づいている仙境である。 

 その山城の背骨をなすのがゲレ雪山山群。万年雪をいただいた優美な山容をそばだてる主峰のゲレ雪山(六二二四メートル)は、チベット民族の信仰の対象として崇拝され、心のよりどころともなっている聖山だ。

 山の基部、標高四八〇〇メートルの地点には、開基から八百数十年を経ているといわれる冷谷(レンゴク)寺があり、山中につけられ細々とした巡礼路が寺へと延びる。チベット仏教徒にとっての聖地、巡礼のメッカになっている所でもある。今夏、かねてより思いをはせていたこの地にチャンスを得て入山することができた。

 山小屋などの宿泊施設もなく、地形図とてない現地への入山にはしっかりとした案内人が必要ということで、チベット民族の彭措(ブエンツォ)さん(四〇)をお願いして山に向かった。

 理塘の街から登山口の熱柯(ジェイコ)郷までは七十キロ程。ぬかるみ、凸凹、石ころ、急坂などが続く道は想像も絶する悪路で、四輪駆動車オンリーのダートコースだ。途中五千メートルを超える鍛冶屋三兄弟峰を越え、四千キロ級の大草原の起伏をいくつも乗り越えて熱柯郷に到着したのは、日が傾き始める午後五時近くであった。

秘境ゲレ聖山麓にある名刹ーー冷谷寺            烏里 烏沙 撮影

 

A 熱柯郷の餓多村

斜面に三五軒の民家点在

 ゲレ雪山登山口の熱柯郷は標高四千メートル、熱柯川沿いに開けたチベット民族の集落だ。われわれは郷のいちばん手前に位置する餓多(オウド)村の羊措(ヤンツオ)家に民泊をした。村の人口は約三百人。麦の穂がたわわに実る山間の斜面に三十五軒ほどの民家が点在し、農業、牧畜、林業などを生業としている山里である。

 羊措家は三十六人の人家族。家族の一人は現在、白玉県の知事をしているというこの地の名家である。夏の季節はマツタケ採りのシーズンとあって、家族の多くは山に泊まりがけで出掛けていて、二人の老人と十七歳の青年がわれわれの世話に当たってくれた。石と木材などで作られた家屋は大きく、しっかりとできている。一階は家畜部屋、二階が居住空間で家具や調度なども立派なものが多い。

 ガイドの彭措さんも熱柯郷の出身、馬方の白馬(ヘマ)さん(三八)は羊措家の親せき、馬方助手の羅布(ロブ)君(一七)はここの家人というわけで三人とも旧知の仲。人山中はチームワークよろしくわれわれに同行し、世話をしてくれた。

 当家には下山時にも一泊お世話になったのだが、その夜の宴は楽しいものとなった。とりわけ、彭措さん、白馬さん、羅布君の三人による一糸乱れぬダイナミックなチベット民舞と優しい胡弓の音色は素晴らしく、今も強く印象に残っている。

 

B 雪上のレンダ放牧場

ゲレの主峰望む景勝地

ツォボォを作っているチベット少女            烏里 烏沙 撮影

 このトレッキング一番のハイライトはイラ力山稜・四千二百メートルの峠からの眺望

である。色とりどりに咲き競う高根の花々を前景にして、万年雪のびょうぶをそばだてるゲレ山群のパノラマはまさに圧巻一言だ。

 峠から宿泊予定地のレング牧場までは四千メートル級の山ひだをいくつも乗り越えていかなければならない。小集落のライカド村に下り着き、そこから冷曲(レンチョ)川沿いに上流に向かっていくと目的の放牧場に着く。

 高度およそ四千二百メートル。辺りに広がる草原にはヤク(高山牛)や羊、馬が放牧され、草木が茂る丘の向こうにはゲレの主峰を間近に望むことができる景勝地でもある。

 ここには夏の間、布加(ブジャ)さん一家九人が二張りのゲル(天幕)で放牧牛活を送っていた。われわれはその一張りに投宿させてもらうことになり、この地で二泊の天幕生活を体験した。

 牧場での朝一番の仕事は奥さんと二人の娘さんによるヤクの乳搾りだ。手際よい手つきで何頭もの搾乳をこなしていく様子は見ていて小気味がいい。それが終わると家畜の世話や家事、放牧と幼児までもが一緒に協力してよく働く。

 ヤクの乳はヨーグルトやバター、チーズなどにも加工されるのだが、しぼりたての乳を沸かして飲むと新鮮なうえにコクがあって実においしかった。

 

C 雪域の山寺「冷谷寺」

風雪に耐える信仰の場

 切り立つ谷では岩をかむ激流、広い河原では蛇行し緩やかな清流となって流れる冷曲(レンチョ)川。その流れに沿う小道を上流に進んでいくと冷谷(レンコク)寺に着く。

 寺はゲレ雪山北東面基郁、冷曲川を挟んだ対岸の斜面、およそ四千八百メートルの高地に建てられている。この位置からはゲレ主峰の山頂は見えないが、そそり立つ山肌と山上の雪りょうが視界にとらえられる。

 寺の開基は古く、今から八百数十年も前に第一世ジャカマバによって創建されたといわれる。二十年ほど前に建て替えられたという本堂を中心に、周囲には僧りょや信者のチベット式部屋が集落を成している。夏は二百五十人ほどの人々が信仰を中心とした生活を過ごし、冬には五十人ほどの僧が越冬して寺を守っている。

 われわれは僧りょの家の一軒で一夜を過ごした翌日、高僧・桑珠さん(七〇)の案内で寺を拝観した。大きく広い本堂、天井や壁画、太い柱、梁(はり)などはチペヅト特有の鮮やかな色どりで彩色され見事である。本堂正面には何体もの仏像や現世ダライ・ラマの写真、生き仏だちの写真などが祭られている。堂内には僧が唱える読経が流れ、だいだい色の灯明が厳かな雰囲気を釀し出している。

 階上にある生き仏の部屋や寺宝となっている大きな貝の化石、シカの角などを見学した後、外の広場に出て出会った青年僧の一人にレンズを向けた。俗世を離れたこの仙境で生命哲学と成仏の道を求めて業を積む僧の精かんな顔と澄んだひとみに私は写欲を覚え、思わずだて続けにシャッターを落としていた。

 

D 標高4000メートルを超す理塘県 

教育施設の整備が課題

 

 理塘県は四川省の西部、甘孜チペヅト自治州の西南部に位置する面積一万四千百八十二平方キロ、人口五万人(94%がチベット族)、標高四千メートルを超える高原と山の地域である。自然条件が厳しく、交通の不便な奥地に点在する集落には、小学校などの教育施設がなく、未就学児童が多いのが現状である。

 私は、当エリアにも比較的近い九龍出身で日本在住の若い友人・鳥里鳥沙(李靖)君の懇請を受け、昨年から「ちべっと高原初等教育・建設基金会」(理事長=鳥里鳥沙)の理事に名を連ね、これまで、できることから現地教育への支援活動を行ってきた。

 基金会は今年四月には特定非営利活動法人(NPO)として東京都から認可され、活動にもさらに力が入れられた。今夏、理塘を訪れた際には、日本で皆さんから預かった善意の募金五十万円を第一回分として理塘県知事・四郎澤仁氏に直接手渡すことができた。

 会の今後の活動としては、県境のへき地・曲登郷(四千三百メートル)の小学校建設ブラン(予算約八百万円)、現在理塘市街の中心地に建設中の寄宿舎付き小学校の一教室を曲登郷の子供用として購入、割り当ててもらうプラン(予算約四百五十万円)があり、両ブランを検討の上、どちらかに絞ってその実現を目指していく。しかしボランティア活動による募金目標のハードルは高く険しいものがある。この活動に賛同いただける人たちのアクセス、協力を歓迎する。(山岳写真家、若草町出身)

〈おわり〉

 

ダライ・ラマってどんな人?

石原静子 

 生けるものすべて転生する中でも、法王が死んだら急いで生まれ替わりを捜すことは、前回に記した通りだ。だけどどうやってみつけるの?本物にちゃんと行き着けるの?文献によるとみつけ損ねもあるようで、詩作に凝り酒色乱行で廃位となった人や、在位二年め十代で急死した人もいる。

 いまの十四世は、幸い「大当たり」の口だ。前に書いた通り一九五九年二四歳でチベットを脱出したが、国民を見捨てたのではなく、インドに亡命政府を作って、基本的な人権、三権分立に戦争放棄まで盛った憲法を公布、学校ほか諸制度を備えた十数万人のチベット人集住区を育て上げた。その傍ら国連に提訴し諸国を回ってチベットの苦境を訴えて、世界の世論を動かし問題の解決に努力し続けた。訪問先は三三カ国にわたり、日本に四回はアメリカ六回、イギリス・ドイツの五回に次ぎ、バチカンと並ぶ多さだ(八九年まで)。

 しかも彼の行脚は、単に中国の暴政を訴えてチベット支援を乞うのではない。八七〜八年の米や欧議会での講演にある通り、チベット全土の非核平和地帯化、民主主義と人権の回復、地球最大の自然保存区化を唱えて、中国とも平和共存する自治のあり方探求を望んでいる。これを、国民の悲願である独立の放棄では、と怒るチベット人は少なくないが、彼は法王の権威に盲従しないこうした議論の盛り上がりを、喜んでいるという。平和地帯化は、チベットが周囲を中、ロ、印、パという核保有国にかこまれ、自国土の一部にウランも産することから、切実かつ人類の未来を憂えた提言である。これらの活動が人々のよき意思を鼓舞したとして、一九八九年十四世はノーベル平和賞を受けた。

 インドに移ってまもない一九六二年に彼は、「チベットわが祖国」と題するかなり長文の自伝を書いている(木村肥佐生訳、中公文庫一九八九年)。それによると十四世は一九三五年アムド地方(今の青海省)の小さな農村に生まれた。教育はないが「器用で頭のいい」父と「親切で愛情深い」母、七人きょうだいの末子である。母に背負われて畑に行き、やがて「ニワトリ小屋に卵を集めにいくのを許され‥‥これは私の最も早い幼児期の思い出の一つである」。そして、常に「私は地位の低い農民の子であることを嬉しく思ってきた」。

 ダライ・ラマ十三世が一九三三年に亡くなり、直ちに「神託を告げる人と学識のある高僧」が空の雲の模様や突然生えた大キノコなどから転生者のいる方角を割り出し、「聖なる湖に‥‥三つのチベット文字の幻影‥‥青緑色の瓦ぶきの家の風景を見」て、探索の末二歳だった彼の所にたどり着いた。本物かどうかのテスト(十三世の持ち物を似た品から見分ける、変装した高僧を高位者と見破る、等々)にパスし、地域の長との交渉が長引いた翌々年、四歳の彼はラバの背の輿に乗ってラサまで三カ月余、父母兄弟を含む大行列の旅をした。法王の夏の離宮であるノルブリンカ宮で盛大な即位式が行われ、この本には模様入りの高い「獅子座」に座る幼児の写真がのっている。

 法王教育は六歳から、僧侶たちの個人教授である。読み書きに始まり、教典の暗記、作詩に占星学‥‥、「私の進歩はむしろ異常に急速であることに」教師たちに驚いた。高等教育コース(治療技術、サンスクリット、弁証法的討論、美術工芸、宗教哲学)は十二歳からで、翌年には正式に寺入りして集団討論にも加わった。学習科目は次々と増えたがそれを超えて「知識欲が増大」し、伴って「釈尊に対する感謝の気持ちが芽生えて」来、「他人のことをより多く思う‥‥憐れみの観念に気づくようになった」。遂に三大寺三五人の学者による最終試験を受け、学位を得たのが二四歳、例のラサ大暴動の当の年だった。

 これらは法王ゆえ念入りとはいえ、チベット仏教者の伝統的な教育で、近代の「科学的知識を完全に無視してい」た。しかし彼は独自に「機械類に魅力を感じて、‥‥玩具を分解して、どうして動くのかを見極め」たり、遂には映写機や腕時計を分解し組み立てて「今まで通り動」く域に達したし、「書物で英語の独習をはじめ」ていた、とある。

 「正式の警告もなく共産中国の軍隊がチベットに侵入してきた」一九五一年、彼はわずか十六歳、宗教教育も終わっていず、「世界のことは何も知らず、政治的な経験もなかった」が、「かつてないほど団結が必要になった‥‥この重大な瞬間に、私は全責任を両肩に引き受け、少年時代を背後におしや」った。「国内の誰もが従う唯一の人物がダライ・ラマすなわち私であった」からである。

 北京に書簡を送り、要請に応じて出向きもして、友好と軍の撤退を懇願する一方で、軍の駐留による生活と文化の破壊に憤激する国民を懸命になだめた。板挟みの苦闘の中で彼は、チベットの「富の配分における不公平が、たしかに仏教の教えと合致していない」ことに急速に気づき、「改革委員会」を作って、土地保有と微税制度を見直す基本的な改革に着手した。「私たちの社会制度が中世紀的なものから近代的なものへと変わり始め」た矢先、「進歩は‥‥コントロールできない出来事によって中断され」た。

 中国軍の不自然な動きと不穏な噂から、十四世の中国拉致を疑った民衆が、離宮をとりかこんで彼を守ろうとし、軍と小ぜい合い頻発、大激突寸前となった。彼一身の「最期はさほど重要でない」が、ダライ・ラマを「何物にも換え難い高貴な価値あるもの」とし、彼が死ねば「チベットの生命もまた終わると信じきってい」る国民のために、彼はこの場を脱出して生きる決心をする。

 法衣を脱いで兵士に変装し、肉親数人と少数の護衛と共に、馬で雪のヒマラヤを越え、インドに向かった。途中で入ったニュースで、出発二日目彼の脱出を発見する以前から中国軍が離宮や寺、市街を砲撃し始め、脱出を知ってからも続けて、ラサに死体の山を築いたことを聞く。

 こうして、「質素で貧しい生活の中に‥‥はるかに大きい心の平和」を保つ「最も幸福な国の一つであった」チベットは、奈落に落ちた。ダライ・ラマは、「私に残された唯一の行動方針に私自身を捧げる」ことを誓う。「それはすなわち、国際連合を通して、又今はこの本を通して、全世界に何がチベットに起こったか、そして何かチベットに起こりつつあるかを気づかせ‥‥そうして将来のために計画を立てることである」。そして彼は以後の四〇余年、この誓いを実行し続けたのである。

 
チベット地域唯一のテント寺院――ベアルコンバ      烏里 烏沙 撮影

チベットの民謡 @

おれの心が欲しいなら、

そっくりおまえに捧げよう。

おれのからだが欲しいなら、

これは、おれにはままならぬ――

怒ってくれるな、娘さん。

お上の帳簿に名があるからは、

この身ひとつがままならぬ。

  ――ウイ地方ラサ河谷民謡――

 

 解放前、異なる荘園の農奴男女は、双方の領主の同意が得られなければ結婚ができなかった。

 


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――