Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

2001年12月28日号

青蔵高原初等教育・建設基金会会報

 第03号(冬号)

THE GE-SANG FLOWER

ゲーサンメト

『雪域聖地情・魅了するチベット写真展』

 基金会が計画している「雪域聖地・魅了するチベット写真展」は来年6月4日〜10日まで新宿のNikon Salon で行うこととなりました、会員の方々もチベットで撮った写真のいいのがあれば、ぜひ、ご参加ください、ひとりで2枚〜5枚程度展示できます、写真展については基金会内部での審査を行うので、2月の22日までに写真またはフィルムを基金会事務所にお送りてください、お待ちしております。

 これからもよろしくお願いいたします。

 

NPOにめざして幅広く活躍しましょう

烏里 烏沙 

 11月18日に基金会がNPO法人に申請するための設立総会が麻生市民館で行われました。会議は基金会の設立や、設立者および役員、そして定款と事業計画および収支予算などについて審議を行われて、会員の皆様からご承認をいただきました。

 基金会の名称について「青蔵高原初等教育・建設基金会」の「青蔵高原」はわかりにくいなので、「チベット高原」のほうがいいじゃないかという提案がございましたので、理事会で検討した結果、「チベット高原初等教育・建設基金会」を採用することとなりました、これは日本国内で使う名称で、中国ではまだ「青蔵高原初等教育・建設基金会」を使います(たしかに「チベット高原初等教育・建設基金会」を中国語に訳すると「青蔵高原初等教育・建設基金会」はふさわしいと思います)。

 会議では、鈴木正子さん、小林進さん、渡辺千昭先生の3人かたは理事に、遠藤美穂さんは監事に選任されました。相談役は石原静子先生と野口リンジン先生を選任しました、理事長はわたくし、烏里烏沙(李靖)を撰ばれました。

  ただ、事業計画と収支予算については修正してから、再び理事会で検討したうえで、会員の皆様に送ります、会員の皆様はもし、どこかもっと直していたほうがいいではないか、あるいは何かいい提案がございましたら、1月の10日までに基金会事務局にご返事お願いいたします。NPO法人に正式に申請するのは来年の1月の17日です。

 順調でしたら、基金会は来年の5月ごろには、正式なNPO法人として運営していきますが、考えてみれば、わたしたちなぜNPO法人申請しなければなりませんか、チベットで小学校つくるだって、任意団体もできるし、個人もできますが、このあいだ新百合の国際交流会で知りあったかたも、内モンゴルで小学校をつくったって、たしかに1つの小学校をたてることは難しくないし、わたしの知りあい、四川アバチベット自治州から日本にきて、いま大阪で活躍しています。彼女はかつて四川音楽大学の教師で、いろいろチャンスをみて、コンサートをやったり、チベットについて紹介したりしています、ためたお金を使って、チベットで3つの小学校もつくったらしいです。

 小学校を建設するだけだったら、確か個人にでもできますが、やはり、それ以上のことをやると、ちゃんとした組織じゃないと、難しいと思います、まず、現地の教育機構や、政府要人などと対等対話するには、個人や、任意団体は難しいです、もし、ただの援助するだけだったら、むこうも喜んで受け取ってくれるですが、でも、それは教育に余り効果がないと思います、教育をアップさせるためには、自分みずから手を入れないとだめと思います。それも、ちゃんとした組織じゃないとできないと思います。そして、財産のことですが、任意団体の場合は、持っている財産は団体のものか、個人のもとか、曖昧です、NPO法人にの場合は、持っている財産や、生まれた利益はすべて公的なもので、明確にしなければなりません。メンバーの募集や、拡大しにいくには、ちゃんとした組織はじゃないとなかなか会員を増やしいかれませんと思います。これまで基金会にご入会なさった会員の皆様はわたくし、あるいは、会員の皆様との関係で、厳しいチベット高原に住む学校に入れない子どもたちに教育させようと意欲があって、会員になっていただいたのです。これまで基金会会員数は(正式に申し込みました)63名、会費及び寄付金は613、454円です、この間の設立総会で何人かの方々は、「わたしは基金会じゃなくて、リ−さんのやっていることを応援したいので、会員になったです」。でも、人間だれにでも、知っているが限られているので、会員をもっと拡大していくには、NPO法人格になって、ちゃんとした組織として、社会的な信頼性も高いので、われわれと関係のないチベット高原に住む子どもたちに教育させることに熱心の方々も賛同していただけるし、応援していただけるし、会員になっていただけると思います。

基金会理事長烏里烏沙氏と理塘県知事四郎澤仁氏と小学校建設についての友好会談 掛川 泰雄 撮影

 定款にも明確に書いてありますが、基金会の目標は

1、チベット高原の1地区(理塘県曲登郷)に小学校を建設する;

2、チベットを中心とする中国西部少数民族の初等教育に関する資料の収集と調査研究;

3、チベット現状や固有文化・芸術等を日本に紹介する;

4、当地域に適した有能な教師養成の方途研究と関係機関への提言;

5、初等教育を受け得なかった児童・青少年を主対象とする教育の研究と試行;

6、チベット高原の自然・社会環境調査と保護・改善への協力;

7、関係機関・団体との連絡・協調及び必要な資料・著作等の刊行;

8、その他本会の目的を達成するために必要な事業です。

 われわれ基金会と関わる事業以上の8種類もあって、全部やることができないですが、何かいい提言とか、これまで日本の豊かな経験など、教えることができるでしょう。9月の小学校現地を視察に行く旅は、途中でスケジュールを変更して、わたしも15年ぶりに故郷の九龍に帰ってきました。その時も、これから九龍の自然環境の保護や、開発について、県政府の関係者たちといろいろお話をしました、こっちもいくつの提言をしました。小学校つくる現場である理塘県も、県の知事と教育以外のの自然保護や、観光、経済の開発についていろいろ話し合い、いくつの提言も出しました。

 世界中最後に美しい自然のこっているところ――チベット高原、チベット高原は長江、黄河、メコン川、ヌ−川の源だけではなく、アジア四大大河ガンガー、シータ、オクサス、インダスの河源とされています、もし、チベット高原の自然が破壊してしまいましたら、被害をうけるのは中国でけではありません、インド、東南アジア、日本までも被害を及ぼすと思います、だから、チベット高原の美しい自然を保護することはチベット高原に住む人々だけではなくて、われわれ人類一人一人ちゃんと責任を持って、自分のわずかな力いれたほうがいいではないでしょうか。

 話題が戻るけど、最初、小学校をつくろうと思っているのは、自分の子供時代のたいへんな厳しい生活してきたので、チベットだけじゃなくて、ほかの地域にでも学校に入れない子どもたちのすがたを見て、そのままいかしたら、かれらのこれからの暗い将来のことを考えてみると、こころつらいです、できる限り、なんかやってあげようという意識が強くて、小学校をつくることを考えたのです。

  この三、四年以来、わたしはチベット族地区十数回以上回ってきました、いまの気持ちは子供時代故郷にいた時の気持ちが全然違います、やはり、旅することも一つの勉強と思います、チベットの自然、文化、同じ民族なのに、異なる習慣、風情など旅を通して知りました。富士山は日本人には知らないかたがいないでしょう、でも、チベットでは、カイラス山を知らないチベット人はけっこういるのです、とくに、カム地方の人たち、恥ずかしいですが、わたしがカイラスを知ったのは15年くらい前のことだと思います。カムからアリまで3000キロ以上もあるし、交通も不便です、だけど、やはり、勉強が足りないと思います。

 われわれ小学校をつくるところには、学校がないだけど、いまは、立派なお寺をつくっているところです。もちろんお寺を建てることが賛成しますが、やはり、伝統的、保守的な考え方はまだひとびとのこころのそこに根強く残っていると思います。むこうもどうしても小学校をつくってほしい要望が強いですが、学校をできてから、われわれの役割が終わるよりは、現代的、科学的、合理的な教育カリキュラムをつくって続けてやっていかないと、効果が上がらないでしょう、われわれ望んでいるのは真の平和だけど、今世界中はあっちこっちに暴動や、テロを起こっていますが、やはり、民族的お互いに尊重しあい、理解し合い、そして、国的に、地域的に貧富の差なくさない限り、平和が見えてこないと思います、われわれ本当の目的も、自分の文化を大切にながら、つまり、チベットらしいチベットを残される使命をもちながら、世界にどこへいっても通用する現代の新チベット人を養成していきたいと思っています、目標として頑張って行きたいと考えております。

 

曲登郷と措布溝と

‥‥小学校建設予定地視察の旅から‥‥‥

渡辺千昭

 ●曲登郷へ

 たおやかに起伏するみどりの山並み、のどかに草をはむヤク(高山牛)や羊などの群れ、抜けるような碧空に浮かぶ純白の雲、山間をぬって流れる清らかな川、彼方の高みに浮かぶ雪山‥‥‥。標高4300メートル。中国四川省理塘県曲登郷はそんな大自然のただ中に、戸数およそ500戸、人口約2500人、主に牧畜業を生業とする集落を形成している。

 2001年9月14日。快晴。四輪駆動車の轍だけが頼りのダートな道に悪戦苦闘、大変な思いをしてやってきた私たち(小学校建設予定地視察チーム)を、この地の自然と人々は優しく友好的に迎えてくれた。

 この日はちょうど当地仏教の催し日(祭日)とあって、村の広場に大天幕が張られ、大勢の僧が集合し法要が行われていた。

 僧侶たちの唱和する読経が広場に流れる、それを取り囲む人々のおだやかな表情、祈りの姿、原をかけ廻る子供たちの元気な声、辺りの自然とよくマッチした人々の民族衣装が華麗だ。昼下がりの平和な光景が目前に広がっている。

 私たちは広場の一隅で昼食をとった後、早速、理塘県教育局長の案内で小学校建設予定地を視察した。そこは診療所や行政などの平屋建ての建物と川とに挟まれた平坦な草地である。ここならば僅かに整地をすれば校舎などの建物と校庭の敷地は充分に確保できると思われる地所なのだが、実際に現地に立って体感してみると様々なことが頭をよぎってくる。

 校舎建築というハード面だけ考えても厳しい自然環境に耐えていけるだけの施設や設備をいかに構築していくのか。この他とよく融合した校舎建築のデザインや教室などの設計はどのようなものがいいのか、樹林が生えていなく、しかも交通不便なこの高地にあって木材その他の建築資材などはどのように調達するのか、通信のことを考えても現時点では連絡のすべはなく、衛星通信に頼らざるを得ないこと、最小限必要な電力などのエネルギーを自然環境に配慮しながらどのように設計していくのか、厳冬期の交通手段は‥‥‥などなどの大小様々な問題は、拾い出すと枚挙にいとまがない。さらに、これらのこととは別に教育実践の中味のことにも思いがおよぶ。教師のこと、カリキュラムのこと、教材‥‥‥などなどのプランと実行のプロセスも並行して推進していかなければならないだろう。それぞれの専門家の指導を得ながら進めることも肝要だ。当然理塘県当局の青写真はあるのだろうが、現地の要望や県当局のプランと我々建設基金会のプランとをよく検討し合って、できるだけ早急にプロジェクトを進めなければならないだろう。

 そして何にもまして肝心なのは資金の調達である。私たちの描いたプランがこの地に大きな実りを見せることを目標にして、様々な形でダイナミックに募金活動をしないといけないだろう。それにはまず会員ひとりひとりのカの結集が必要である。会員の拡大運動もさらに進めることも大事だろう。県の当局から説明を受けながら私はプランの実現へ向けて改めてファイトがわいてくるのを感じていた。

秘境・措布溝屏風をそばだてる5000〜6000m級の高峻山岳が聳えている  烏里 烏沙 撮影

 

 ●措布選へ

 それにしても秘境・措布溝(そぶこう)へのアクセスには難渋を強いられたものである。理塘からチベット(ラサ方面)への公路を走行しているうちはまだよかったのだが、理塘県との県境を過ぎ、枝道に入ったとたん、想像を絶する悪路の連続。洗濯板の上に泥濘をなすりつけたような悪路が渓谷沿いに延々と高みへと続いていく。四輪駆動車の天井やドアに幾度となく頭や体を打ち付けたことか。午後の陽もだいぶ傾きを増してきた頃、やっと辺りが開けて見事な風景が視界に飛び込んできた。そこが措布清風景区の入り口であった。

 僅かに草紅葉も色づきはじめた草原。広く明朗な原を蛇行していく清らかな川。流れが逆光にきらめいて美しい。原の周囲に屏風をそばだてる5000〜6000メートル級の高峻山岳、その堂々たる山姿が写欲をそそる。

 私たちを乗せた中国製四輪駆動車は轍をトレースしながら原を突っ切り、水深30〜40センチの川を車でそのまま渡渉していき、さらに進んで奥地の湖のほとりに到着した。手元の高度計に目をやると4100メートルを示している。湖に面してウッディな山荘がぽっんと建っている。今夜の宿である。

 外国からの来訪者などほとんどないこの地には宿泊施設などない。この山荘は当地のチベット仏教の活仏の持ち家だという。活仏の友人である理塘県知事のはからいで一夜の宿を提供していただいたというわけである。

 辺り一帯はカナダの風景を思わせるような、コバルトブルーの湖と濃緑の針葉樹、そそり立つ岩山や雪山とが見事に調和して佳景を見せている。私はこの景色を目前にして、朝と夕、刻一刻と変化していく山やまをファインダーで捉えてはシャッターを切り続けた。

小学校を建設する予定地――理塘県曲登郷標高4300メートル    渡辺 千昭 撮影

 たった一泊二目の滞在であったが、ここでは自然度満点の世界と人々の優しさや笑顔と触れ合うことができた。車や宿を提供してくれた理塘県知事や活仏の好意、お国自慢の歌合戦まで飛び出したチベット人ドライバーやスタッフとの山荘での一夜の宴と交流、措布溝最奥のチベット寺院で受けた僧侶たちの暖かいもてなし、山道を歩行中私の荷物を背負ってくれようとゼスチャーを交えて語りかけてくれた年若い尼僧の善意と笑顔など、今も心に残っている。

 秘境・措布溝から山をひとつ隔てた北方には、私たちが小学校建設を予定している曲登郷がある。そこから当風景区までは馬や徒歩てほぼ一日の歩程だという。私は将来小学校が完成して、その在籍児童たちと共にこの仙境でワークキャンプなどの実践ができたらいいなぁと、ひとり夢想していた。

                (山岳写真家・日本中国文化交流協会会員)

 

チベット記行

写真展と東チベット(カム・アムド)

大岩昭之

四川アバチベット自治州ザムタン(壤塘)のお寺――曾克寺(未解放地区) 大岩 昭之撮影

 11月に写真展「チベット建築巡礼1996〜2000」(ドイフォトギャラリー 11/22〜11/28)を開催した。これは私にとって四回目の写真展であり、タイトルにもあるように昨年までの五年間の記録である。

 これまでのチベットへの取材の対象としては、一九八二年以来、ラダック、ザンスカール、ムスタン、ドルポ、チベット(自治区)、グゲ、ブータン、青海省の一部などであった。今回の写真展で初めて昨年(2000年)行った、カム・アムドを加えた。この時は麗江(雲南省)から西寧(青海省)までの旅である。今までは、東チベットは何かチベットのはずれとしかの印象しか持っていなかった。それに東チベットの旅行記を読んでも何か頭に入らない。これは地名の読みにもよる、チベット(自治区)の方はだいたいチベット名で統一されているが、東チベットは中国名、チベット名が混じっている。例えば東チベットの入口、康定は中国名ではカンデン、チベット名ではダルツェンドである。又、カンゼは漢字で書くと甘孜となりカンズーとなってしまう。尚、チベット名の表記でカンゼは dkar mdzes であり、これをこのまま読むとカルツェである。これらのように旅行記など書かれた時代にもよるが、表記が違うことが多い。今回、東チベットを訪れて、地図をよく見たり調べたりもしたが、何か土地感ができたような気がする。とにかく、東チベットに行って今までのチベットのイメージが少し変わった。それは、一言で言えば、チベットも豊かであると言う印象である。それは家(民家)の造りを見てもわかる。中央チベットの家に比べれば大きい家が多い。日本の民家よりもはるかに太い木材の柱を使っているのも見られた。そして家の造りも峠を越えて隣りの地域に入るとその造りも違ってくる。これも又新たな発見であった。東チベットを知らずしてチベットを語ることなかれ、こう言ってもよさそうである。

 今年の夏(二〇〇一年)も烏里さんたちと共に再び東チベットを訪れた。未解放地区ザムタン(壤塘)の近くでは、写真でも見たこともない寺院を訪れた。曾克寺(写真)、タワー状の建物(マニ搭と言っていた)がある。文献での確認をしていないので(文献があまりない)、この寺の来歴などはわからない。しかし、東チベットにはまだ知られていないモノもありそうである。なお付け加えておくと、未解放地区ザムタンでは宿舎に泊まっただけで、翌朝、公安が来て退去させられた。

 

 

チベットにもぐりこんだ日本人たち.2

  石原 静子 

 前号〈その一〉では二〇世紀初め頃に、初めてチベット入りラサ入りした坊さん五人の、それぞれ個性的な生き方を紹介した。今回〈その二〉は、残る僧でない五人の物語である。仏法修行や経典持ち帰りでないどんな目的で、人びとは難路に挑んだのだろうか。

 五人の否十人中最年長は、明治維新直前に鹿児島で生まれた成田安輝で、陸軍幼年学校を出た軍人である。日清戦争後の一八九七(明治三十)年、政府の密命でチベット辺の情報を得るために大陸深く潜行した。機密文書には、当座の旅費や従者費用など合わせて七〇九円とあり、製鉄労働者の年収が二五〇円の時代だからかなりの高額である。おまけに翌年いよいよ入蔵間近として、法王他への豪華なみやげリストを外務省に提出している。

 能海たちと同様に四川省から入ろうとして失敗、インド経由に切りかえたが、ラサ入りはやっと一九〇一(明治三四)年、川口慧海より九ヶ月遅れで、滞在は二〜三週間だけ。しかもラサ入り直前に又々多額の資金を申請して、手ひどく値切られた。これで不足なら入蔵しなくてもいいから「早々帰国せよ」という返事で、どうも金づかいの割に成果の乏しいことに、政府が気づいたフシがある。その後はやはり情報将校として満州へ行き、一九一五(大正四)年客死。大陸浪人風軍人の典型で、薩摩士族のなれの果て、の感じである。

 正反対なのが成田よりずっと若い大正生まれで目中戦争中の一九三九(昭和十四)年に、関東軍からチベットに派遣された野元甚蔵である。偶然だが同じ鹿児島の但し農民出身で、農学校を出て満州に渡り蒙古語を学んでいたところ、軍の特務機関長にその実直さを見込まれた。任務は「チベットがどうなっているのか、できるだけ永く滞在して見てくればいい」というゆるやかなものだった。機関紹介の案内者もいてぶじインド経由で入蔵、ラサよりも主にその西方の小都市シガツェに滞在し、やがてバレかけてからはもっと田舎の農村に隠れ住んだ。

 これが野元には幸いだった。農民の目でチベットの農業や暮らしの実態を見て、報告書の形で詳細・貴重な記録を残したからである。ヤクを使った畑の土起こしから常食の青稗麥脱穀までさせる働き方は日本人の目に珍しかったし、エンドウ、ナタネなどの「種子を同時に混ぜて蒔く」粗放農業にも注目した。帰国ー敗戦後は郷里に戻り、農協支所長を務める七五歳の野元に、著者は直接会って話を聴いている。

 チベット潜行を承諾したとき、特務機関長が当時東北帝大にいた多田等観(その一参照)をたずねて助言を得るように命じた。等観はこの純朴な後輩に、チベットの情報や仏教、活仏のしくみなどを教えたあと、「いつどこでも人と交わるに誠をもってせよ、言葉の通わぬ野蛮人でも真心は通ずる」と語り、野元は胸に刻んだ。活仏といえば彼はラサの短い滞在中に偶然、現ダライ・ラマ十四世が、先年没した十三世の転生者として四歳で即位のため青海の生家からラサに移る行列と、出会っている。

 野元より二〜五歳若い二人、木村肥佐生と西川一三は、第二次大戦真只中に青春を迎えた。木村は熊本出身、当時内モンゴルに日本が創ってまもない興亜義塾に入った。「帝国ノ大陸国策ノ遂行ヲ完カラシメンガ為‥‥‥工作ニ従事スル志士的青年ノ養成ヲ使命トスル」学校で、学費無用で募集十五名、「蒙、中、露各語と西域地理・歴史ナド」を一年間学んで、「第一線ノ任務ニ服スルモノトス」。西川は一級下の三歳年長で、二人は政府の密命の下別々に行動したが、のちにラサで偶然再会することになる。

 密命は重慶の蒋介石への連合軍の物資補給路が、日本軍のビルマ侵攻後はシベリア経由の北からの道に変ったらしいので、その実態を探ることだった。二人は前後してモンゴル〜青海省ルートでチベットへ、「戸籍抹消して行くんだから、それなりの覚悟が必要だった」。〈その一〉の能海と、事情は違うが似た覚悟だったろう。

 木村のラサ入りは一九四五(昭和二〇)年九月、敗戦直後だがもちろん知らず、やがて風評に愕然、「心の支えを失った‥‥‥しかし帰る方法はない」。が同時に、「祖国日本への義務から解き放たれ、期せずして第二の漂泊を体験」となった。再会は同年十一月で、二人は一緒に東チベットなどを放浪の末、ヒマラヤを越えてインドに出、敗戦の確認と共に復興への歩みを知った。思い定めて名乗り出て、母国へ送還の船に乗ったのが、一九五〇年。彼らが後にしてきたチベットに、中国の大軍が侵入して占領、長年の敵イギリスがインドほかの植民地独立への対応で手一ぱいなのをいわば利しての武力併合をした、当の年である。

 二人のその後は、対照的である。木村はモンゴル語を学ぶ際その一方言に興味を持つなど元々學究肌で、西川は諸民族の暮らしそのものに関心のある生活派、潜行中も寺で最低位の僧の労働をしたり、物乞いのの群れに身を投じたりした。木村は学び直してのちに亜細亜大学教授となり、西川は盛岡で美・理容品を売る小さな店を持った。

 以上の四人は時代の流れの中、日本の大陸への野望に乗せられてチベットに赴いた人たちだが、最後の一人矢島保治郎は変っている。一八八三(明治十六)年群馬生まれでちょうど日露戦争に参加、旅順・奉天でも戦って軍曹で退役した、一九〇九(明治四二)年、世界一周無銭旅行を思い立ち、上海をふり出しに西藏、印度、トルコ、アフリカ、南米北米、ロシア、と回る十年計画が、「新聞に華々しく書き立てられた」。働きながら、康定、理塘の四川ルートでラサに達したのが翌々年。清朝末期のチ・中激戦期で、一般人を含む双方の死体が山積し野犬が食うに任せる「地上の地獄」を見た。チベット兵の軍規がまるでダメで、将も夜は家に帰って寝てしまう風なのに、日露戦の勇士はあきれた。やがてダライ・ラマ十三世が帰藏して、独立を宣言、しばしの平和となったとき、法王もチベット軍の改革・強化の必要を痛感、日露戦勇士の噂を伝え聞いて兵の訓練を頼むことになった。軍事専門家でもない一軍曹が五百人のチベット兵を指揮する成りゆきはユーモラスだが、本人は大得意。法王は賢明にも、日、英、露各適任者?に訓練を競わせることにし、一定期間後に首尾を比較するコンテスト閲兵をやった。結果は日・英が優秀だったが、「英国への気兼ねからか」英式はが採用となった。

 格好よく勢いのいい矢島を見込んで或る豪商が一人娘をと望んで来、結婚して男児が生まれた。ダライ・ラマの別称を音で「失敬して一子に『意志信』と名づけ」、意気揚々と妻子を連れて帰国した。が日本ではもう忘れられていて相手にされず、失意の矢島は「異郷に来た妻の心を充分思いやる金裕がな」い亭主関白だったから、孤立無援の妻はやがて二九歳の若死に。意志信は継母の手で成長したが、第二次大戦で応召、一九四三(昭和十八)年ニューギニアで戦死した。

 この本の終わり近くに、野元甚蔵とダライ・ラマ十四世再会の話がのっている。インドに亡命中の十四世が仏教者会議で来日した一九八〇(昭和五五)年、鹿児島にも寄られた際に、野本が昔幼い法王の行列を見た話をしたら、大いになつかしがられたという。その時の法王の講演にあった平和への提言を野元は「忘れることがない。『火が火を消すことができないと同じように、怒りが怒りを消すことはできません。火が水によって消されるのと同様、怒りはやさしさによって消すことができるのです』」。

(2001年9月、アメリカのテロ報復準備ニュースを聞きながら)

 


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――