Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

2001年10月26日号

青蔵高原初等教育・建設基金会会報

 第02号(秋号)

THE GE-SANG FLOWER

ゲーサンメト

・基金会10月と11月の動き・

@ 基金会事務所は10月下旬に町田市に移転しました。これからもよろしくお願い致します。

新しい住所は:〒194-0033 東京都町田市木曽町880番1-37-410室

    青蔵高原初等教育・建設基金会

A 基金会第8回会議は11月18日午後1時〜5時に川崎市麻生市民館第1会議室(小田急線新百合丘降りて徒歩3分、麻生区図書館2階)でN P O法人を申請するための設立総会を行う予定です。

基金会第一の目標:                                       

標高が4300メートルの高地に小学校を

烏里 烏沙

馬に乗っている石原先生――基金会初の小学校建設予定地視察

場所:理塘県曲登郷          烏里 烏沙 撮影

 夏休みに2回の小学校建設予定地への視察の旅がやっと終わり、これからの仕事は小学校を建てる資金を集めることです。基金会は主にチベット高原で民族文化を守る人材の育成や、学校に入れない子どもたちに初等教育を受けさせることを目標としていますが、その第一歩は、まず標高が4300メートルの高地理塘県曲登郷に小学校を建設することです。

 7月にわたしも初めて小学校建設予定地曲登郷へ視察に行きました。いままで、チベット自治区をはじめ、チベット族の住んでいる地域をけっこうまわりましたが、今回曲登郷に行って、びっくりしたのは:第一に、そこは思ったよりはるかに素晴らしいところでした。澄み切った空が高く、更に高く、そしてあおいのです。草原にはいちめんの花畑が遠く更に遠くまで、目の見えないところまでつづいています。ヤクや、ヤギなどが草原でのんびりしていて、天真爛漫な子どもたちも無邪気で、かわいくて、視察するメンバーの人たちは、たちまちかれらが好きになってしまいました。チベット語には「シャンバラー」という言葉がありますが、それは桃源郷の意味です(英語の「Shangri-La」という単語ももしかしたら、ここからきているかもしれません)。ここはある意味で、「シャンバラー」ともいえると思います。

 次に、ここに住む住民たちの体格が普通のチベット族よりは大きいことでした。人間だけではありません、ここのヤクもほかの地域のヤクより大きいのです、県の教育局長のはなしでは、ここのチベット族の人たちはモンゴル族の後裔で、昔(元の時代に)モンゴル軍がここに攻めてきてから、現地のチベットの女性と結婚してそのまま残ってきたのだそうです。夏になると、ここの女性たちはほとんどオレンジ色の帽子をかぶっています。伝説によると、かつてモンゴル軍がここに攻めてきた時に皆オレンジ色の帽子をかぶっていたのだそうです。それはひとつの信号でもあるらしいです。歴史上、かれらはよくとなりの部落と争いを起し、時には中央政府軍と戦ったり、時にはチベット軍と戦ったり、一番ひどい時は雲南省の北部まで追い出されてしまい、ずっと不安定な生活を送ってきました、つい最近かれらはその周囲の部落とやっと和解して、ここに戻ってきました。ここの男たちの馬術もすごく有名で、理塘の競馬祭の時も、けっこう参加しています。

 小学校を建設することですが、いま曲登郷に7歳〜12歳までの子どもは298人もいるので、現地政府及び教育局の希望では、すくなくとも教室が6つが必要で、1つは40平米、合計240平米になります。寄宿制学生寝室は240平米、学生食堂120平米、あと教職員の宿舎9ユニット、一ユニットは40平米、合計で360平米です、トイレは40平米、学校の周囲を取り囲んだ塀は200メートル、正確にいうと、余り合理的ではないけど、あくまで現地の方々の考えで、こちらはもっと合理的に設計したほうがいいのではないかと思っています。

 たとえば、教職員の宿舎や、学生食堂はそんなに広くなくてもいいと思いますが、教職員の共同研究室や、学生集会室などがあったほうがいいと思います、そして、浴室や、客用寝室も必要と思います。われわれ会員の中には短期教師となる希望者もいると思うので、客用寝室は主にそういう人たちのために作られるものと思います。これだけの規模の小学校をつくるには、人民幣約50〜60万元が必要と思います。日本円に直しますと、750万円〜900万円くらいです。

 現地の政府や、住民たちは小学校を作る工事は来年から始めたらいいではないかと言っていますが、やはり、こちらではこれから資金を集めないと、無理なので、基金会の計画は小学校を建設する工事は再来年に始めることを目指しています、「不可能を可能にする」という言葉がありますが、基金会会員は皆で努力すれば、ちゃんとゆめをかなえられると信じています。ぜひ、皆様の力をかしていただきたいと思います。

 

参加者レポート その1

チベットとの出会い

川崎 文子

 和光大学の学生であった烏里さんに、初めてお会いしたのは、去年の秋でした。世界自然遺産九寨溝の旅に参加したときで、故郷チベットへの想いを、熱く語ってくれました。卒業後の進路に話が及んだとき、中国の奥地にうまれ育ち故に教育を受ける機会に恵まれない子ども達のために、小学校を建てたいのだと話してくれました。

 それから半年、大学卒業を果すや、青藏高原初等教育・建設基金会を立ち上げ、具体的な青写真を見せてくれたのです。その信念の強さと、エネルギッシュな行動力に驚かされました。

 中国は日本の隣国でありながら、その広大さ故に、未知で近寄り難い国です。その中国の内陸深く標高四〇〇〇米以上の峠をいくつも越えて、理塘県曲登郷に私は、行ってきました。日本語は通じない、英語なんかはもっと駄目、理解しあいたいという、お互いの気持と笑顔だけが唯一の手段でした。

 名古屋から空路重慶へ、あとはチャータバスで成都、康定、理塘へとつないだ旅でした。

テントで仏教の経典を教えている光景理塘県曲登郷             川崎 文子 作

 早期に理塘を出発し、ラサへ向かう街道を右折し丘陵地帯へと入って行くのです、高い山もなければ、高い木もない道は極端に悪かった前夜の雨にぬかるみ、抉れ、滅多に補修されない道の果てしなく続くと思われた頃、たどりついたのが、曲登郷でした、標高四三〇〇米の高地でしたが、昼下りの太陽は暖かく丘は緩やかにどこまでも続き、その麓の広い草地に、人々は集っておりました。その日は何かの祭礼の日のようで、成層圏まで見透かせそうな深い青い空にとけ合って、それは素晴らしい光景でした。

 草の広場から川に向って少し下ったあたりに学校の予定地はありました、流れのほとりには馬や、山羊が草を食み、水を飲んでいました。

 この夢の様な風景に一年のうちのほんの、僅かな間だけのこと、どこよりも早く冬が始まり、雪と水に脅かされる曲登故郷に学校をと動いた烏里さんの人間に対するこの上ない優しさはを垣間見た思いでした。

 烏里さんの学校設立の話に躊躇もなく協力することにしたのは、烏里さんのこの優しさに共鳴できたからだったと思っています。

 チベットに対する私の理解はほんの僅かな一面的なものでしかないけれど、母親のように、烏里さんを信じ、支援して行きます。

 曲登郷のあの無限の空の青さを皆様と共有したいものです。

                           

 

参加者レポート その2

小学校建設予定地を訪ねて 

小林  進

 私は9月に四川省理塘県曲登郷に建設する小学校現地視察ツアーに参加することが出来ました。

 県に用意して戴いた車で理塘から川蔵公路を1時間程高原ドライブを楽しんだ後、頭が車の天井にぶつかりそうな悪路を2時間ばかりで目的の場所に到着しました。

 青い空、白い雲、緑の草原、高原をわたる爽やかな風、一旅人にとってはこの地は桃源郷に思われてる。烏里君が小学校建設の場に選んだ理塘県曲登郷である。しかし旅人にとって桃源郷と思われる地も、現実は厳しい所である。標高は最低でも4300メートル、空気は薄く夏は短く冬は長く気温も低い。郷の面積は1476平方キロメートル、人口は2500名弱、7〜12才の小学校適齢児童は298名であるという。住民の多くは遊牧民でありテント生活を送っていたのだが、最近定住生活に切り替え新しい家が建築されていた。また、牧畜以外にこれといった産業もなく、冬の寒さによりヤクが死んだりと生活も理塘県の中でも低い方に位置するという。

 私達が曲登郷に行った日は法要が催されており、大勢の老若男女、子供達が草原に集まっていた。どこにこんなに多くの人が住んでいるのかと思うくらいの人の多さであった。皆、坊さんの説法を聴くために何時間もかけてやってきたのだろう。日本人を見るのは初めて人も多いらしく、子供達は近くに寄ってきては写真を撮ってくれとせがんだり、大人達は遠巻きにして私達を見物していた。住んでいる土地が厳しくても、生活が貧しくとも子供達の目が澄んでいること、輝いていることに心が洗われる思いであった。

 昼食後、小学校建設予定地に案内され、建設計画の内容を説明して戴いた。建設場所としては広さや位置等申し分のない所である。問題は資金であり、いかに早く調達出来るかにより建設の時期が決まりそうである。300名近い子供達が学校に行きたくても行けない生活をしていることを考えると一日も早く学校が出来ることを祈りたい。

小学校建設予定地――曲登故郷の天真爛漫な子どもたち            撮影:小林 進

 私は8月に雲南省迪慶チベット自治州にある巴拉村を訪ねることが出来た。この村は車の入る村から徒歩で20数キロ渓谷を遡り、さらに600メートル程登った標高3000メートルの山の上の戸数10戸、人口100名程の小さな村です。曲登郷と違って高原の村ではなく山の上のにあり、同じような厳しい環境の村です。しかし、曲登郷と違って小さいながらも小学校があり教師も1名いて教えています。同行の者が子供達に野球や相撲、算数などを教えますと、目を輝かせていました。野球の道具などありませんが、手作りのボールに木の棒をバット代わりに投げたり打ったりと真剣そのものでした。野球も相撲も生まれて初めての経験でしょうが、新しいことへの興味と覚えようとする意欲に満ちあふれていました。

 曲登郷の子供達は学ぶ喜びを知りません。子供達は学ぶ権利を持っています。学校に行ってチベット語は勿論、中国語、英語、出来たら日本語などを学び、算数、理科、社会などを勉強し、余裕のある人は更に高校、大学で学び広い世界を知って欲しい。私が小さい頃、新しい教科書が届くたびに今度はどんなことが学べるのかとわくわくした気持ちを子供達にも味わってもらいたい。

 私は今回の小学校建設現地視察ツアーに参加する前は、単にチベットに小学校が出来たらいいなぁと思っていましたが、8月の巴拉村、9月の曲登郷での体験、理塘県の建設計画、意欲をお聞きし、一日も早く小学校を建設しなくてはならないと考えるようになりました。自分に何が出来るのか、何をしなくてはならないのか、建設基金会の皆様の知恵をお借りして活動したいと思っています。

秘境措布溝――小学校建設予定地から馬に乗って行く場合は一日かかる     撮影:小林 進

 

チベットにもぐりこんだ日本人たち

 石原 静子

 小学校予定地まで行くの大変だったけど、今は飛行機もバスもあるし、山中も車で何とかなる。それらがない昔、といって伝説もまじる遠さではなく明治以来くらいに、独力でチベットに入った日本人はどれ位いたのか、いたならどんな人が何のために?。

 そんな疑問にピタリの本をみつけたので、紹介しよう。江本嘉伸著「西藏漂泊ーチベットに魅せられた十人の日本人」(山と渓谷社 一九九三、四年)。上下合わせて六百頁もの大著で、年代順に書いてるけど、分かり易いように、彼らの「目的」で二つに分けよう。十人のちょうど半分が坊さんで、あとの五人は普通の人だから。

 初めてチベットに足をふみいれた日本人は、一八九九(明治三二)年で能海寛と寺本婉雅、三十一歳と二十七歳の若い僧だ。今の康定から理塘を通って巴塘まで、ちょうど「小学校予定地見学ツアー」と同じ道だが、中国との国境紛争中でその先へ進めず、引き返した。寺本は諦めて帰国したが、能海はさらに青海省から入ろうとし、それもダメと知ると南下して雲南省ルートを試みた。四川省を含むこの三省はチベットの東に地図上縦に並んでいて、けわしいが道があったのだ。能海は哲学館(いまの東洋大学)時代の恩師に大理(大理石の原産地)から出した手紙を最後に、消息を絶った。

 この絶筆は、「不惜身命」と書き出し、「歩一歩艱難を加え‥‥‥無二の生命を仏陀に託し‥‥‥重慶より連れ来りし雇人を当地より返す」云々とある。まさに死を覚悟してラサを目指したわけで、十人中不帰の人は彼だけである。まじめで先の見える人だったらしく、当時の日本人はチベットを蕃地扱いが多かった中で、チベット仏教や文化を正しく評価して謙虚に学ぶ姿勢だった。また、これからは英語で表現できなくてはと、慶応義塾で英語を学び、少年時代からつけていた日記を英文に変えた。彼がぶじラサに着いて修行・研究していたら、「日本人のチベット理解は大きく違ったであろう」と著者は惜しんでいる。                        

 ラサに初めて入った人は一九〇一年(明治三四)年、二歳年長の河口慧海である。堺の樽屋の子で小学校も中退だが、夜学で学んで小学校の代用教員になり、校長糾弾運動をやってクビを幸い哲学館に入った(能海とは知り合わなかった)という元気者である。インドでチベット語を学び、ひとりでこれも日本人として初めてヒマラヤを越えて、南からの入藏を果たした。羊二頭連れていて、吹雪の夜は二頭の間で座禅して生きのびた。ラサでは由緒あるセラ寺で修行、器用でもあったらしく医者のまねごともして評判を取った。

 日本人とバレで危くなったため、逃げ出してインド経由で一九〇三年帰国、さっそく新聞記者に体験を語ってこの連載は大評判となった。多少のホラまじりだが生き生き面白く、「日本人のチベット観は河口の本によって形づくられたといってもいい」。マスコミ利用の先駆者?だが、この記事をまとめた本をやがて英訳(自身も関わった)してインドから出版したから、能海が見通していた世界への発信を実行したことになる。渋沢栄一ら財界の支援も得て一九一四(大正三)年再ラサ入りし、初回から念願だった大藏経などを大量に持ち帰った。

 能海、河口より二〇〜二五歳若いいわば次世代の僧二人が同じ頃(大正二年)、西本願寺から派遣の形でラサに入り、正規の修行をやれた。法主大谷光瑞が英才僧を育てチベット仏教の研究・交流をさせる大望を持ったからで、交換留学生としてチベットからまず高僧ツァワ・ティトウルが来た。二人のうち若い方の多田等観が、その世話をし、日・チ語を教え合う役になった。秋田の寺の息子で、そういう地味な仕事は東北出身者がいいとの指名だったが、半年後ティトウル師が光瑞法主と対面の場で、せっかくの日本語が一向に通じないことが判明した。チベットの高僧が「立派な秋田弁」を喋ったのである。叱られた多田は、「秋田弁だって立派な日本語だ、と心底思って憤慨した」とある。

 一九一二年(明治四五年)帰国するティトウルを送って多田と年長の方の青木文教の二人は、インドに行った。ダライ・ラマ十三世が数年前に、チベットを植民地にとねらうイギリス軍の侵入をモンゴルに避け、インドを経て帰国への旅の途中なのと、落ち合ったのである。以後二人は法王の知遇を得たが、この場から一緒にとはいかず、再会を約してそれぞれの工夫でチベットでもぐりこみをはかることになった。

 若い多田が選んだのは能海、河口とも違う第三のブータンから入るルートだった。ブータンの巡礼者に扮するため、彼は履物を捨ててはだしでいばらと雪のヒマラヤ道を血を流しながらたどった。青木はネパール経由で、うまく法王一行に追いついた、折から辛亥革命で清朝は崩壊、中国兵が撒退して、十三世は十年ぶりでラサに戻り、改めてチベット独立宣言をした。やがてチ、中、英三国でシムラ会議が開かれ、国境確定は成らなかったがみだりに軍を動かさないいわば休戦協定ができて、チベットにしばしの平和が訪れた。

 もはや日本人(外国人)であることを隠す必要はなく、十三世の口ぞえもあって多田の修行は三大寺院からひっぱりだことなり、法王の裁定でサイコロで修行先が決まった、と愉快な話だ。ここで彼は日本僧としては最長の十年間修行し、教義問答など決まりの難しい諸テストにパスして、最高から二番目の位階まで進んだ。帰国のときチベット仏教の経典や文献多数を持ち帰れたのも、法王はじめ周囲の信頼の表れであろう。帰国後その克明な目録を作って、一九五五(昭和三十)年学士院賞を受けた。

 青木は留学三年で終えたが、当時まだ珍しかったカメラ一式をチベットに持ち込んで、寺や僧だけではなくチベット諸実景を撮り、貴重な記録を残した。その頃だから大きく重い撮影機材を潜入の荷にどうやって隠したのか、と著者は不思議がっている。帰国後慧海のようにチベット体験記を文字にした者が多いが、写真集出版は青木ひとりである。

 能海の相棒で理塘の先で諦めた寺本嫣雅は、僧としてよりも政治家、外交官資質だったらしい。帰国後しばらくして又中国へ通訳の役割で出てきて、清朝末期の皇帝や西太后と知己となり、漂泊中の十三世と彼らを会わせる中チ和解に動き、又十三世と大谷尊由(光瑞の弟で代理)を結ぶなどの工作に力を発揮した。その分ラサ入りはかなり遅れたが、代わりに偶然北京で戦乱で荒れた寺から貴重な経文類を手に入れて持ち帰るなど、強運と要領の個性だったようだ。

 二〇世紀初頭の当時、釈尊の生地インドはすでにヒンズー化していた。仏教の真髄はむしろチベットにある、と彼ら日本僧たちは苦労を死さえ覚悟して難路に挑み、経典の持ち帰りを目指した。むかし三蔵法師がインドに原仏典を求めて、はるばる現シルクロード辺を旅をしたように。孫悟空ならぬ羊やヤクの姿も、彼らの旅の記録には散見するのである。

 

チベット族の服飾

カム地方チベット民族ファッション                  撮影:烏里 烏沙

 チベット族の服飾は多彩にして華麗であり、中国各民族の中にも特に特色をもっています。それはもちろんチベット族の優れた伝統文化の重要な一部となっています。チベット族の主要居住区のチベット高原は,平均海抜4千メートル前後で,「世界の屋根」と称されています。気温の高下は大きく,太陽の光が強く,紫外線も強いために,チベット族の男女はみな,フェルトまたは上等な毛皮で作った帽子をかぶって頭部を直射日光から保護しています。放牧地帯の女性はまた,皮膚の乾燥をふせぐために精製した動物性油脂を顔に塗るほどです。

 チベット族の服装は,チベット高原の農民と牧畜民の生活と文化の生んだ,独特なものです。地域によってわずかの違いはありますが,様式は大同小異で,基本的には,中に長袖の短いシャツを着て,その上に大きくたっぷりした長袍(蔵袍という)を着ます。そして帯をしめ,軟らかい長靴をはきます。このうち,最も特色があるのは長袍です。蔵袍はずんどう形で,男性のはたっぷりして大きく,袖つきです。女性のはやや細く,袖のある

のと,袖なしとがあります。袖つきの蔵袍の袖の長さは膝下まであり,泡は足までとどきます。袖を着る時はベルトをしめ,右腕を外に出し,懐中の空間に,「ツァンバ」(ハダカ麦で作った主食)やバターを入れた碗,はては子供まで中に入れることができます。働く時は,両腕を出し,両袖を腰に巻きます。休む時は,全身を長袍で包みこんだようにして寝ます。長い袖は枕にでき,まるで寝袋のようです。こうして自由に脱いだり,重ねた

りできる多目的な衣服は,高地の遊牧民にとってまことに実用的なものです。衣服の材料と装飾には,地域によっていくらかの違いがあります。遊牧地帯では,男女とも羊の皮そのままで作った長袍を着ます。服に凝る人は,慶事のさいには小羊の皮を裏に用い,毛織物や編やどんすを表地にした長袖を着ますが,その襟のふちや袖口を,上質の毛皮または赤,緑,黄,青などプールーかわうその色のプールー(厚い毛織物),あるいは川獺,豹の皮などで飾りつけます。農業地帯では衣服はかなり薄いです。綿布,プールーまたは絹,どんすを使い,あわせにしたり,または薄く綿を入れたりします。チベット地区の女性は,長袖の短いブラウスに,袖なしの長袖を着て,腰に色鮮やかなエプロン(チベット語ハンタンで邦単とよぶ)をしめます。山岳地帯の女性のエプロンは長くて美しいです。改革を経た現在のチベット女性の衣服は,より細身になり,色調も落ち着いたものとなりました。エプロンは短いながらも色の調和に配慮しています。

 昔のチベット族の男女はみな弁髪をしたものです。女性は,弁髪に色糸を編み入れ,頭上で巻きつけます。男性は弁髪を一本にするか,または髪が頭をおおう程度に短く切る。遊牧地帯の女性は,頭上にたくさんの編みさげを作ります。チベット族の女性は頭飾りに特別の注意をはらい,銀幣,琥珀,珠玉などをさまざまに組み合わせます。チベットの女性は,いつもイヤリング,首飾り、胸飾り,腕輪などさまざまな装飾品を身につけるが,みな貴重な珊瑚,めのう,トルコ石,金,象牙などをはめこんであり,地区によっておのおのの特徴をもっています。チベット族の「朝霞錦」(昔は蕃錦と呼はれた),ホワジイ(毛織りのじゅうたん)は古くから有名で,唐史の記載によりますと,唐の頃,吐蕃(つまり今のチベット族)が長安へ送る贈り物の明細書には,朝霞錦,ホワジイ,金銀器や宝飾刀などが含まれていました。これらの製品は,その生産技術の上で,現在なお伝統的な民族の特色を保持しており,チベット族の人々から深く愛されています。ラシャとフェルトと皮革で作られたチベット靴は,底は硬く,中央部の左右両側の部分は柔軟なので,はき心地がよいです。靴先は四角いもの,丸いもの,とがったものなど各種あります。後部に10数センチのスリットがあって,ぬぎやすくなっています。チベット族の服装と頭飾りのデザインは,地区ごとの違いはあっても,その模様と色づかいはみな,吉祥を願い美麗を尊ぶことで共通しています。

 いまは、チベット族の服飾もいま大きな変化の時期を迎えています。一部の伝統的民族服飾工芸は大きく発展 したが、現代の生活にそぐわないと工芸や複雑な服装に改良されつつあります。

 中国の少数民族の服飾は中華民族の優れた伝統文化であり、世界からますます注目を浴びてきています。今後、それは服装のスタイルを豊かなものにし、人々の生活を美しくするために大きな役割を果たしていくにちがいないと思われています。

 


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――