Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

・ チ ベ ッ ト 族 の 風 習 ・

チベット仏教にみる活仏の転世制度

 活仏の転生制度を論じるには、つまり何が活仏が、何が転生かという2つの概念をはっきりさせなければならない。活仏とは、チベット語で「チュクベク」(朱比古)といい、意味は「転生者」、あるいは「化身」である。チベットの仏教がモンゴル族地区に入って後も、この活仏の転生制度は採用され、モンゴル語では「ブビルハン(呼畢勒雫)」とよばれた。これも「転世者」あるいは「化身」といラ意味である。「活仏」(フオホー)というのは漢語であり、チベット、モンゴル地区の「チュベク」に対する漢族の習慣的な称呼である。趙朴初先生の考証によると、活仏といラ称呼の起源は、「明朝の皇帝が当時のチベット地方で政権を握ったカギュー(鳴挙)派法王を『西天大笠昌在仏。に封じたこと、清朝の皇帝がダライに賜わった封号もそれを援用していることと関係があるという。これらの封号や称号は仏教の教義上では成立せず、実際にもモンゴルやチベットの仏教のなかにも『活仏』という言葉はないのである。タイ(泰)族の仏教では比丘を「仏爺」とよんでいるが、これも漢人が習俗的に誤ってそうよんだものであり、彼ら自身はこうした称呼をもたないのである」(『仏教常識問答』)。

 チベット語の語義によれば、「活仏ーーチュベク」の本当の意味では、仏祖の人間世界における化身ということである。彼の使命は、仏法を継承、伝播、発揚して、人間世界の不平と苦難を取りのぞき、衆生が輪廻(りんね)の苦しみから離脱することを援助し、円満で幸福な理想郷に達するということである。「転生」とは、この「活仏」とよばれる僧侶が一般の出家の人とは異なることをいう。個体として、一個の具体的な人間として、彼らの血肉の身体が消亡することは、普通の人間と同じように死ぬことかも知れない。しかし、彼らの精神は常にあり、彼らの霊魂は永遠に不滅である。彼らは一代また一代と伝えられていき、一人の活仏が死んで人間の世界を離れれば、もう一人の「化身」がまた人間の世界に降臨して、その事業を継承する。これが「転生」である。チベット語では「ヤンス」(央司)といい、「新しい化身の誕生」という意味である。このように一代また一代へと継承され、永遠に中断することはない。外国の一部の学者が「活仏」を「死なない僧侶」によんでいるのは、ここに原因がある。

 

 仏教は紀元前の6〜5世紀にインドで起こり、すでに2500年あまりの歴史をもっている。仏教は広くアジアの国家と地区に流布して、近代になると欧米の国に伝えられ、世界でも大勢の信徒をもち、世界の三大宗教の1つとなっている。仏教が伝播する過程で、現地の原始宗教・民間信仰・伝統的な文化、風俗や習慣と結合し、数多くの宗派と学派を形成し、多くの国家の社会、歴史政治、文化に非常に重要な影響をもたらした。しかし、仏教の多くの宗派、教派、学派のなかでも、ただチベット仏教にだけ活仏の転生制度がある。これはチベット仏教の一つの重要な特徴である。仏教は中国のチベット族地区に伝えられて、すでに1300年以上の歴史がある。初期の段階では、その教義、教規などはインド、ネバールの仏教と大きな区別がなかった。その後、チベット族の固有の宗教、文化の伝統と結合して、大きな変化が起こり、内容から形式まで、明らかな特徴をもつようになった。活仏の転生制度はチベット仏教をその他の宗派、学派と区別するうえての、最も顕著な標識の1つである。

 活仏の転生制度の形成と発展は、長い歴史の段階をべたものである。それはチベット仏教の後期の隆盛時代に生まれたのである。最も早く転生の活仏と認められたのは黒帽派のカマパ(鴫瑪巴)である。チベットに伝来した仏教はニンマ(寧瑪)派(俗称、紅教)、カギュー(鴫挙)派(白教)、サキャ(薩迦)派(花教)、ゲルク(格魯)派(黄教)などの大きな教派に分かれている。1つの教派として内部に最も多くの宗派、支派のあるのはカギュー派である。黒帽派と紅帽派はカマ・カギュー派なかの最も大きな派である。黒帽派の首領であるカマパシ(鴫璃巴喜、1204〜1283年)はかって、主として中原に入って、中国を統一した蒙古貴族と何回も連絡をとった。彼は1253年、ロンユセトェ(絨域色堆)地方でフビライ(忽必烈)に会見し、1256年、カラホリン(喀喇和林)地方で元の憲宗マング(蒙哥)に会見した。マングは彼に一つの金縁の黒い帽子を贈り、後世の人はカマパシの一派を黒帽派カマパとよんだ。カマパシは1283年に円寂して、その弟子が翌年、彼の転生の霊童として選ばれた。その霊童はラチェン・ドルチェ(譲炯多傑)といい、「自然金剛」という意味であり(1284−〜1339年)、里帽派カマパの第2代首領となった。『土観宗教源流』によれば、カマパシは臨終の時、弟子のルト・ウチェンパ(珠妥・烏金巴)に位を譲り、彼が自分の創始した事業を継承するとともに、「遠方のラトェ(拉堆)方面に黒帽派法統を継承することのできる人があらわれてくる。彼の誕生するまでは、お前が私の事業を継承し、政教の事務を主宰しなさい」と授けて、金縁の黒帽をウチェンパの頭にかけると、すぐに円寂した。間もなくラトェ地方にカマパシの「化身」ーーわずか1歳のラチェン・ドルチェを探しだし、彼が法統を継承したのである。

 黒帽派がカマパシの転生の霊童を選認したのは、多方面からの原因によるものである。吐蕃王朝が崩壊して後、チベット族地区の全体は大分裂の混乱した局面をむかえ、いろいろな教派が林立し、新興の貴族農奴主はそれぞれに一角を占めて、自ら王と称し、覇をとなえて、各派の政治勢力および宗教勢力のあいだには、尖鋭で複雑な闘争が存在していた。彼らは互いに相手を弱め、自分を強大にしようとしていた。ある一つの政治集団や宗教集団の内部にも、激烈な派閥闘争と権力闘争が存在していた。こうした群雄割拠、相互攻撃、相互併呑といった情勢のもとで、1つの集団のなかに傑出した、統率力のある、相対的に安定した指導的人物と指導的中心があるかどうかは、その集団(派別、村落、教派など)の興亡にとって、重要な意義をもったのである。こうした指導者が消失(死亡、あるいは、その他の原因から)したら、すぐに継承者の問題に直面するのである。そうしたときに、内部で激烈な権力をめぐる争いが起これば、外敵は必ずそれに乗じて攻撃してくるのである。これはすべての国家、政党、集団政治勢力、宗教勢力にとっても、不可避の問題だったのである。

 カマパシは傑出した指導者であり、政治的にも、宗教的にも、高い威光をもっていた。その彼が世を離れ仏になった後、黒帽派には巨大な権力の真空が残されたのである。彼の弟子のなかにも、別のどんな人間も、カマパシほどの能力と威光をもった者はいず、黒帽派全体を指導することができる人物はいなかった。内部には分裂の恐れがあり、対外部には、その他の教派や政治集団と競争する力がなく、敵対する勢力によって瓦解されてしまう危険があったのである。カマパシはその晩年、この潜在的な危険性を十分に認識しており、弟子たちとも相談して、自分の威光と影響力を利用して、転生の「化身」を自分の継承者とし、黒帽派内部の団結と統一を維持しようとしたのである。こうして「活仏の転生」の方法で相続人の問題を解決し、重大な指導危機を避けたのである。

 間もなく、紅帽派も活仏の転生制度を採用し、チベット仏教の各派のなかでも最も早く活仏転生を採用し、最も長く伝承する一派となった。すぐその後、カギュー派は前後していくつかの活仏転生の系統をつくった。この一派はチベットでの地方政権を掌握したことはなかったが、前チベットと康区では、ずっと一定の勢力を保った。彼らは内陸の歴代の中央政府やチベット地方の権力者とは嫁接な関係をもち、十五、十六世紀にはチベットの地方勢力の紛争に介入したこともあるが、政治面や経済面ではそれほどの実力がなく、主として宗教的な影響を基礎として、いろいろの政治活動をしていた。このため紅帽派からは有名な学者が多く出たのである。

 カマ・カギューの創始者はタルプ・ラジェ(塔布拉傑)とその弟子のドソン・チェンバ(堆松欽巴、1110〜1193年)であった。「ドソン」(堆松)とは、3つの時といラ意味であり、過去、現在、未来のことである。「チェンバ」(欽巴)とは、「通暁」といラ意味である。門徒たちは、彼が過去、現在、未来のことに通暁しているとして、彼を「ドソン・チェンバ」(堆松欽巴)と尊称したのであり、本名はチュジェチャバ(曲吉札巴)といった。

 カマパシの弟子は彼の遺言にしたがって、転生の霊童を選認した後、ドソン.・チェンバをカマパシの第1世活仏として追認した。カマパシを第2世活仏(1204〜1283年)とした。

 黒帽派活仏はチベットの民主改革の時期まで伝えられて第16世となり、ルぺ・トジェ(如畢多傑)とよばれた。彼は1924年の生まれで、1959年にインドに流亡し、数年前に円寂した。ダライ・ラマの主宰のもとで、すでに黒帽派の第17世活仏が選認されている。

  30年間あまり、カマパは欧米で広く布教し、大勢の信徒を得て、世界の各地に数百もの教室を建立しており、その影響力はダライやパンチェンの信奉するゲルク派(黄教)を越えている。その原因は、この一派の教義が西方の現代人の文化状況に近いからだとされる。

 紅帽派の第一世活仏はチャバンセンゲ(札巴森格、1283〜1349年)といい、元代に彼が灌頂国師に封じられて、1つの赤い色の帽子を賜わったことから紅帽派と名づけられた。紅帽派の第10世活仏のチェド・ギャツォ(曲珠嘉措、1736〜1791年)は、6世パンチェンのペテン・イェーシェー(白登益希)の同母異父の兄である。ゴルカ(廓ホ、ネバール)軍隊と結んで後チベットの地方政権を争い、タシ〃ンポ寺を強奪したが、1791年、清朝が福康安将軍を派遣して討伐した。チェド・ギャツォ(曲珠嘉措)が自殺し、乾隆皇帝は詔を下して売国罪とし、紅帽の活仏の転生を禁止したため、紅帽系の活仏は断絶してしまった。

 カギュー派の後をうけ、その他の各派も次々と転生の霊童を選認して、内部の団結と統一を維持し、自分の教派の大衆への影響力を拡大したため、しだいに制度となったのである。

 各教派が活仏の転生制度を実行した時代と、その具体的な作法は同じではない。ニンマ派は最も古い教派であり、千年あまりの歴史をもち、過去には師徒伝承という方式で法統を継承してきたが、カギュー派の後をうけて活仏の転生制を採用した。かつては金チベットを統一し、サキャ王朝を建て、それに元朝の中央政府とも連絡をとったサキャ派は、二系列の継承法を採用した。現代用語でいえば「両輪制」である。一方では、サキャ法王の家族は世襲制を実行した。法王は結婚することができ、子は父の業をつぎ、世代相伝であり、ずっと今日まで続いている。もう一方では、同教の高僧、大徳の伝承については、しだいに活仏の転生制度を採用し、これらの活仏にサキャ派の各寺院を主宰させることにより、権力が過度に法王家族に集中することを避けて、内部の矛盾を緩和するのである。ゲ〃ク派(黄教)は後からできた派閥であるが、その発展は迅速で、後にはチベットだけではなく、全チベット仏教のなかでも、支配的な地位を占めるようになったのである。ゲルク派の創始者はツォンカパ(宗喀巴)である。第1世ダライと第1世パンチェンとは、彼の2大弟子である。

 ゲルグ派の伝承も「両輪制」を採用した。創始者のツォンカパは生前、ガンデン(甘丹)寺の主であり、「ガンデン・チハ」と称され、つまり、ガンデン寺の法令であった。彼が円寂した後、彼の継承者たちは「ガンデン・チパ」制を採用した。それは世襲制でもなく、終身制でもなく、転生制でもなくて、任期制なのである。彼の選んだのは昇級テストによるグシ(格西)制であった。つまり、寺院の一番の基層組織であるカンツン(康村)から試験を始め、一級また一級と上昇して、最後には、ガンデン寺の大衆のまえで試験をし、勝ちのこった者がガンデン・チパに任ずることができるのである。基層から試験をし、しだいに上級して、最後に人々のあこがれの的であるガンデン・チパの宝座に坐るには、順調に進んだとしても、20年以上かかるのである。ガンデン・チパの任期は7年であり、7年に一回変わり、再任はできない。厳格なテストを通過して、ガンデン・チパの宝座に登った人は、ツォンカパの転生した化身とされて、ダライとパンチェンの当然の老師でもある。彼に会見するとき、ダライとパンチェンも頭を地面におしつけておじぎをするのである。ダライが円寂したり、あるいは幼くて親政ができない場合、ガンデン・チパは摂政の任にあたることができるのである。あるガンデン・チパは直接にダライの経師も担当し、ダライが経典を勉強することを指導するのである。

 理論上からすれば、すべてのラマは、貧富や貴賎をとわず、ただ仏教学の面で非常に深い造詣があり、厳格なテストを通過しさえすれば、誰でもガンデン・チパの宝座に登ることができる。この点では、権利は平等である。実際にも、今日までの九十人あまりのガンデン・チパのうち、貴族農奴主の出身者はきわめて少なかった。大部分は貧しいラマであり、彼らは数十年の苦学をへて、懸命に進歩を求め、仏教の典籍に精通し、弁舌に巧みで、最後にすべての競争に打ち勝った者が、チベット仏教のこの最高の栄誉を自分のものとするのである。チベット族には「自分に腕前さえあれば、ガンデンの宝座には主人がいない」ということわざがあり、こうした情況を反映したものである。

 ダライやパンチェン、その他の活仏は転生の制度を採用している。チベット族のあまたある活仏の転生制度のなかで、ダライとパンチェンという2大活仏の代々の系統は、重要な地位をしめ、絶大なじんかん代表的、典型的な上曇弼をもつものである。「空には、太陽と月があり、人間にはダライとパンチェンがある」といラチベット族社会のことわざは、2大活仏のチベット族のなかでの地位と影響を如意に説明したものである。歳月は流れ、星は移りめぐり、人間のことが変遷しようとも、活仏の転生は神秘的な太陽と月が永遠に落ちることのないように、この世界の屋根で光り輝き、この古い歴史をもった土地にいくぶんかの神秘的な色彩を添えているのである。

 その後、チベット族の本来の教派であるボン教(異教と俗称)も、活仏を選認し、転生制を採用した。各教派は普遍的に活仏の転生制度を採用したために、ほとんどの有名な高僧、大徳は転生の霊童をもち、新しい活仏が続々と登場した。全国のチベット区にどれだけの活仏がいるかはこれまで正確な統計がない。一般的にいうと、それぞれの寺院には一定数の活仏がいる。ここで説明しておかなければならないのは、チベット語では、寺院、廟宇、修行室についての厳密な区別である。例えば、ラサのセラ、デプン、ガンデンの3大寺、シガツェのタシルンポ寺、西寧のタール寺、甘南のラブロン寺などは、いずれも寺院であり、チベット語ていラ「コンパ」(衰巴)である。寺院には必ず仏、法、僧の三宝がある。仏とは仏像のことであり、法とは仏教経典であり、僧とはラマである。小さな寺院や尼寺をのぞけば、一般の寺院には活仏がおり、少なくとも1〜2人、多ければ数十人以上、百人からの活仏がいる寺院もある。廟宇はチベット語ていラ「ラカン」(拉康)であり、仏殿のことである。ラカンには仏像と経典がなければならない。一部の有名なラカンには、そこで奉じられている主な仏像と経典がある。例えば、ラサのチョカン(大昭)寺は主として唐代に長安から迎えられた釈迦牟尼を奉じており、小昭寺ではネバールから迎えたもう一体の釈迦牟尼像を奉じているのである。ラカン(廟宇)にはラマがいるが、ただ管理人だけの場合には、仏・法・僧の三宝を備える要求はなく、活仏はいない。修行室はチベット語で「リチェ」(日垂)といい、一般には人里離れた静かな山林に建てるのである。漢語には「山間小廟」と訳すこともあり、教徒が仏事の活動をおこなラ場所として提供するのである。例えば、戒を守り、食を禁じ、修行をすることなどである。ここにも活仏はいない。

 民主改革の前、全国のチベット区には、寺院が4000以上あり、そのうちチベット自治区内には2700以上あり、尼寺は寺院の総数の5分の1以上をしめていた。筆者の不完全な調査によれば、解放初期から民主改革まで、約3000〜4000名の活仏がいた。そのなかには、2名の女性活仏がおり、1名は後チベットのランカヅツォン(朗十子宗)のカギュー派のサンテン・ドルジェ・ハモ(桑頂・多吉帖姆)活仏であり、もラ1名は、甘南チベット族自治州にいた。この2人の女性活仏はチベット仏教の事業を継承、発揚する中心的な力となり、チベット族の社会では重要な影響をもっていたのである。

 

 活仏転生制の理論上の基礎は、輪廻(りんね)転世説である。仏教の説法によれば、衆生は六道のなかを輪廻し、生まれては死に、死んでは生まれて、永遠にとどまることがないのである。徳を積み、善行をし、罪業を悔いることにより、最後には輪廻の苦しみから離脱して、浬磐の境界に到達することができるのである。因果報応、前生、来生などの観念は、みなここから出たものであり、霊魂の不滅という観念は活仏転生制度の理論的核心である。

 現代科学の観点からすれば、雲塊不滅という観念は笑止で、非常なでたらめということになる。しかし、古代の人たちはそれを敬度に信じ、疑うことのできない真理とした。人類の祖先が欝蒼たる原始林から出てきて、曲がった背中を初めてのばして、直立して歩けるようになったとき、彼らは驚異の目で大きく広がる蒼竃を凝視したであろうし、果てしてない大地を見わたしたことであろう。動物の群から分離しできたばかりの仲間たちを見まわし、大脳で思考し、2つの方面から、この上もなく苦しい探索を始めたのであった。その一は、人類の生存空間、すなわち外部の世界であり、哲学家たちはそれを第一宇宙と称する。宇宙の奥義を観察し、人類と大自然との関係を認識することは、始終、人類の思惟活動の重要な内容である。その二は、人生を探索し、自我を認識することであり、すなわち第二の宇宙である。人間は万物の霊長であり、霊は、大脳を用いて思惟活動をすることができることである。霊魂の観念は、人類が思惟活動をおこない、自我を認識した第一の成果だったのである。

 それには長く果てしがない認識の過程があった。社会発展史の基本知識や考古学、人類学の研究成果は、われわれに次のように教えている。人類の初期には、霊魂の観念がなかったし、宗教の観念もなかったのである。人類が動物から分化したばかりのときは、また一種の半猿の状態にあって、自分を周囲の自然界と分化することができなかった。この時期、人間の思惟器官である大脳はまだ発達していなかった。初期の人類の大脳構造により、この時期の人類は複雑で抽象的な思惟が不可能なように決定づけられており、ただ食物を得ることと、簡単な道具を作ることなどに関係のある労働の過程を反映するだけであった。人類の抽象的な思惟能力は、長期にわたる実践のなかでしだいに形成されてきたものである。この過程はざっと数百万年という時間を経たのである。今から十万年前、初期のホモ・サピエンス(すなわち古人)の段階で、長期間にわたる労働のために、人類の四肢は分化した。直立して歩くことにより、人間の視野は拡大され、手の解放と道具の使用によって、人間の感性的認識の来源を著しく増加したのである。人類の生活と意識が発展するにつれて、思惟が現実から離脱する可能性が萌芽的なかたちであらわれて、最初の霊魂といラ観念が出現したのである。

 考古学によって次のようなことが証明されている。古人の脳の量は猿人のそれよりも、はるかに大きくて複雑であり、しかも複雑な石器を作ることができ、人工的に火を取ることをマスターし、死者を埋葬する習慣が始まり、死者は必ず一定の方向に向けられたのであった。例えば、半披(パンポー)村では子供を陶製の棺のなかにいれて埋葬し、上には小さい穴をあけたのである。彼らは、霊魂が穴から出ると考えたのである。小さな穴がなければ、霊魂はなかに閉じこめられ、解脱することができないのである。成人を埋葬する場合、頭を西に向けたのは、太陽が落ちるところはもう1つの世界であり、人の死後、霊魂がそこに行くと考えたのであった。このことは、古人がすでに霊魂の存在を信じていたことを証明し、埋葬の方式と方向が死者の霊魂に影響をあたえることを信じていたことを証明している。

 今から約五万年前、晩期のホモ・サピエンス人(すなわち新人)の段階では、霊魂の観念の痕跡はもっと明らかとなり、しかも初期の原始宗教の痕跡があらわれた。例えば、北京の郊外にある周口店の龍骨山の山頂洞人は、肉体を離脱する霊魂の存在することを信じており、死者を埋葬するとき、死者のまわりに赤い鉄粉をまくことにより、死者の霊魂を平安にできると考えた。世界のその他の国家でも類似の状況が発見されている。人類学、考古学、宗教学の研究成果はわれわれに次のように教えている。霊魂という観念の誕生は、一時的な迷いや誤りではなく、個々の人のねつ造や思いっきではなく、また個別の哲人や神学家の天才的な発見でもなくて、人類の認識の発展の必然的な結果であり、社会発展の規律に合致した歴史的現象である。それは1つの民族、1つの国家が専有するものではなく、金人類の普遍的な現象である。霊魂の観念には悠久な歴史があり、大衆のなかにも広く影響をあたえている。人々がよく「生まれかわる」というが、それは霊魂不滅という観念の1つの形象であり、素朴な表現である。例えば、ある人がもうひとりの人を太いに助けてやると、その助けてもらった人は心からの感謝の気持ちをこめこんじようて「今生ではあなた様のご恩に報いることはできませんが、来世は牛馬になってもそれに報います」という。また、ある人がもう別の人に恨みを結べば、彼はきっと「今生ではこの恨みを晴らすことができないが、来世は妖鬼になってもこの深い恨みを晴らさずにおかない」というはずである。これは「転生」のことである。1つの霊魂の具体の存在形態は変化することができ、人間であれ、牛や馬であれ、お化けや鬼であれ、その霊魂は消滅しないのであり、それは自己の愛と憎をもち、恩と怨をもち、追求と憧憬があるのである。

 霊魂不滅という観念は、各民族の文芸作品のなかにも大量に表現されている。漢族の有名な民間のリヤンシャンポーチューインタイ伝説である「梁山伯と祝英台」の物語りは若年男女のあいだの永遠に変わらぬ愛情を熱情的に賛美し、封建専制主義を鋭く批判したものである。このカップルは生きているラちは一緒になることができず、死んで一対の胡蝶となり、羽根をそろえて飛び、永遠に離れることがない。胡蝶と化す,しとは「転生」であり、霊魂不滅の観念によって因縁さえあればこの一対の胡蝶はまた「転生」することができるし、一対の仲むつまじい恋人になることができるのである。京劇の「李慧娘」は、善良で従順な李慧娘が死んで後、恐ろしい鬼となり、仇をはらすといラものであり、霊魂不滅ということを述べている。小説『聊斎志異』。には、大量の鬼怪の物語りがもっと霊魂の不滅という観念をさらに形象的に描写されている。

 

 霊童の選出と認定には、一組の定形化した順序と儀式があり、活仏の大小を問わず、みなこれらの順序をふまなければならない。ダライやパンチェン、その他の大フトクトを選出認定するときには、その段取りはさらに厳しいものとなる。

 第1は、八卦を見て、兆候を観察する。前世の活仏が逝去するまえに、何かを遺言したり、あるいはある種の兆候をのこしたり、彼がいつ、どこで転生するかを教えたりすることがある。そうであれば、事態は好都合で、彼の遺言なりによってさがすのである。遺言や示唆がなければ、入封を見て、サンテン神霊に方向や場所、特徴を指示してもらわなければならない。山南地区には「ナモラツォ」(娜姆拉措)とよばれる神湖があり、その名の意味は吉祥仙女が魂を寄せる湖ということである。吉祥仙女はダライ・ラマの護法神である。ダライやパンチェン、その他の大活仏の霊童を選認する前には、これを主宰する僧俗の官員たちはまずナモラツォに行って湖を見る。一説によると、湖面にはいろいろな景象や画面があらわれて、人々にある種の暗示をあたえるといラ。例えば、13世ダライ・ラマが円寂した後、湖面には「ア(安)、カ(崎)マ(弱)」の3つのチベット文字があらわれた。当時の摂政王であったレチェン(熱振)活仏は「『ア』は『アムド』の第1の文字であり、転生の霊童がアムド地区で生まれることを予示する」と解釈した。その後、14世のダライ・ラマのテンジン・ギャツォ(丹増嘉措)は、果してアムド地区に誕生したのであった。

 また、9世パンチェンの転生の霊童をさがしたとき、湖面に1つの画面があらわれた。それは1匹ど奪うの簿猛そうな虎がタシ〃ンポ寺の前階段に眠っている、というものだった。10世パンチェンはチュチェ・シェンツェンはちょうど虎年(1938年)に生まれたのであった。 第2は霊童を訪ねることである。卦詞といろいろな兆候を手がかりとして、人を派遣して、四方を訪ねるのである。いろいろな兆候、卦詞などについての観察の角度、個人の理解が違うために、ときには霊童が1、2人のことがあり、ときには3、4人みつかることがあり、もっと多い場合もある。例えば、14世ダライの霊童はただ1人であり、10世パンチェンの霊童は6、7人もみつかったのである。

 第3は、器物を識別することである。前世の活仏の最も好んで使った器物、例えば茶具、法器、衣服などを、それらと形状が完全に同じ器物を一緒に置いておき、霊童にそれを識別させる。彼が手に取ったものが、前世の活仏が生前に用いていた器物ならば、転生の霊童と認定される可能性がある。

 第4は神降しによる占いをすることである。霊童の候補者を選定した後、各寺院の護法神に神降しをしてもらい、誰が前世の活仏の転生であるかと聞いてもらう。護法神の答が器物の識別結果と同じであれば、その子供は基本的に転生の霊童に認定されるのである。一般には、活仏の霊童を選認する仕事はこれで終わり、その後に吉日を選んで、坐床の大典をおこなうのである。ダライとパンチェンはさらに金瓶からくじを引く儀式をおこなラのである。この制度は清朝の乾隆皇帝が制定したものである。金瓶はラサのポタラ宮に保存されている。霊童の候補者が2人あるいはそれ以上だった場合、彼らの董則をくじ1つずつに書き、金瓶に投げいれるのである。ラマが7日間の祈穣読経をした後、金瓶を揺らしてくじを1つ飛びださせ、そのくじに名前のあった者が、転生の霊童なのである。最後は中央政府に報告して批准を受ける。

 

 


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――