Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

 

   

   あなたの目はアジアに向けていますか

   あなたはいまなにを求めていますか

   あなたのこころはゆたかですか

   チベット横断の旅──

   きっとあなたの求めるものがあるはずだ

                     ──作 者

    

ゆ か り

 わたしがはじめで日本に来たのは、九六年四月だった。来た時のことを思い出すと、まるで昨日のようである。成田空港を出て都内に向かう途中、環境が清潔で、畑も中国よりきれいに整理されているし、電車の中で会った方々が礼儀を重んじていて、豊かなやさしい顔をしていることが、第一印象としてずっとわたしの心の中に残っている。それらの場面を目にすると、中国のことを連想してしまう。

 中国は昔から「礼儀之邦」といわれてきたが、その言葉はいまの中国にはふさわしくないと思われる。冗談の話だし、いつごろのことかもうはっきり覚えていないが、友人と一緒に成都にある本屋さんに行った時に、目が「漢民族発展史」というタイトルの本にとまって友人は、「漢民族発展史」より「漢民族衰退史」のほうがむしろ正しいかも、と言った。確かに言えている‥‥‥

 標高の高い所から来たわたしが、その頃、唯一慣れなかったことは、何か、頭がふらふらして、からだも力がはいらない感じだった。酸素不足でもないわけで、原因は不明だ。あとで故郷に帰ってそういう話を仲間たちにすると、そういうことはあるよ、誰々さんも海辺へ行った時そうだった、それが「低山病」だよと皆が言う。医学用語に「低山病」という言葉があるかどうか、まだ調べていない。

 日本に来てから、まる六年になる、日本の生活にもすっかりなれてきたけれど、やはりお正月になると自分の故郷に帰りたい。

 

 

 

第一章 夢を現実にする計画

 

お正月に里帰り

 九九年二月、中国ではちょうど旧正月にあたる。日本の友人佐々木尚美という人から、一度中国のお正月を体験してみたいという話があった。彼女は中国の少数民族に興味をもち、特にチベットが好きでチベット語も勉強していた。そういうわけで、わたしは彼女を案内して故郷の康定に帰ることになった、チベット横断の大計画は、いま思うとここが始まりだったのである。

 その頃は、東京から成都までの飛行機が飛んでいなかったので、成都へ行くには、まず東京から新幹線に乗って名古屋へ、名古屋から飛行機で重慶に行き、重慶からまた夜行バスに乗って成都に行くわけだった。

 わたしたちが成都に着いたのは、もう夜中の一時だった。泊まった所がチベット武装警察総隊の成都事務所招待所で、着いてからまず荷物を部屋に置いて、二人で近くの「マァラァタン」(簡易四川風火鍋)の店に入り、晩ごはんを食べた。

 ナオミにとっては初めての本番の四川料理だったが、彼女が辛いものが好きらしく、美味しかったと言ってくれた。

 わたしは中学校・高校の時は成都附近の学校で勉強したので、成都には親戚や友人が多い。翌日は成都に住む親戚の家に行って「団圓飯」をごちそうしてもらい、次の日の朝七時発のバスに乗って康定に向かった。

 

 

途中でフランス人とので会い

 中国では、バスの発車時間は一応決まっているが、ちゃんと時間通り発車するのもあれば、三〇分や一時間ほど遅くなることもよくある。二日後は大晦日でお正月も近いせいで、運転手はお客がたくさん乗ってくれれば自分の利益も上がると考えているので、客の立場から考えはしないのだ。

 出発時間は六時三〇分だが、バスが動き出したのは結局八時前だった。わたしたちが乗っているバスは康定へ行く最後の便なので、けっこう混んでいた。運転手は五〇代のチベット族の男性で、息子もバスの運転免許を持っているので、途中で二人が交替しながら運転していた。

 成都から康定まで、普段は八時間があれば着くはずなのに、この時季は二郎山がもう封山(標高が高いので、山道が凍っていて滑るため、冬の間一時的に車の通行が禁止される)したので、栄経を回ってから行く。そのころ、中国の寝台車は居心地まで考えていなかったし、バスの中ではひざも立てられないので、余計に疲れる。バスは満員なのに、途中まだ客を拾っていく。みんな文句はあるけれど、考えてみればお正月だから、家族が集まるのは大晦日だけなので、我慢していた。結局康定についたのは、次の朝の五時になってしまった。

 バスに乗っているいわゆる外地人はわたしたち以外に、上海にある合弁会社で仕事をしているフランス人のPierre(中国名は武石文)と、北京から来ている若者の李暁東と二人であった。

 最近は中国人でも正月に旅行に出る人が増えてきたが、つい最近まではみんな故郷に戻るのが一般的で、フランス人なら正月休みに旅行に出かけるのは理解できるが、北京から来ている若者といった人は少なかった。外国人にいろいろ聞くのは失礼と思って、Pierreのことはあまり聞かなかったが、でも、彼の中国語が完璧なのには驚いた。暁東にどうしてお正月に家族の方々と一緒に過ごさないか、と聞くと、彼は、いつも家でお正月を過ごしてきたので今回は一人で遠い所へ行ってみたい、今回の目的は二つある、一つは海螺溝に行く予定、もう一つは少数民族が好きだから、チベット族に逢いに行きたい、と答えた。

 その後、暁東がいろいろ語ったところでは、彼の母は北京工業大学の教員で、父は軍の中でもけっこう地位の高い幹部だったが、一〇年前の天安門事件に巻き込まれて誤殺されてしまったらしい。

 フランス人Pierreのスケジュールでは、まず成都から康定へ、そのあと理塘へ、理塘から稲城に下っていき、中甸、麗江、大理、昆明へ、あと昆明から飛行機で上海に帰るとのことだった。このルートが開放されたのはつい最近のことで、交通が不便なので、なかなか通れない所でもあるが、魅力の溢れる辺境地帯である。

 わたしたちと知り合う前に、二人はすでに友達となっていて、わたしたちと一緒に行動したほうが面白いらしい、と暁東は海螺溝へ行くのをやめて、一緒に康定まで来た。

 バスを降りてから、わたしは彼らを康定賓館に連れて行き、ホテルの予約が終わったあと、ナオミと一緒にわたしの姉の家に向かった。

 

 

大晦日の多民族パーティー

 家に着いた時、ドアが閉まっていた。なんだか変だなぁと思って、ドアを叩いた、ちょっとしてから、姉がドアを開け、寝不足な顏をしながら「成都についてからどうして電話しないの、母さんたち、待っていられないからと九龍に戻ったよ。あんたのせいで、わたしがここで留守番している」と言った。

 いけない、そういえば、そうだ、成都に着いた時、康定に電話するのをすっかり忘れてしまった。

 あとで姉に聞くと、祖母婆がもう八〇歳なので、もちろん、わたしも大事だけど、それより、ばあちゃんが最近からだの調子がよくないことで、みんな心配している。昨日の朝、おとうとの小林がマイクロバス一台を運転して、九龍に帰った、いまはもう着いているはずと言う。今日は大晦日だから、今さらばあちゃんの所に帰るわけにはいかない。

 部屋の中にはいって、ストーブの隣に座り、からだもだんだん温まってきて、元気になった、やはり、康定の冬は寒い。ナオミのことを姉に紹介したあと、康定の家族の近況についてあねからいろいろ聞いた。

 そして、わたしたちが成都から帰る途中でいろいろ大変だったこと、バスで知り合ったPierreと暁東のことも姉に話した。姉は、「あんたたちは、失礼ですよ、二人を勝手にホテルに置いてきて、彼らはここに親戚がいるの?友達がいるの?早くホテルへ行って、彼らをさそって家に来なさい」と叱った。

 わたしは、「わたしたちは彼らとバスのなかで知り合ったばかりよ。家と何も関係がないのに、ここに呼んで来てまずいよ」と答えた。姉はやさしい顔になって、「いまお正月だから、街では店も閉まっているしご飯を食べる所もないよ。誰でも困る時があるから、彼らを誘って家に遊びに来たほうがいいじゃない」。

 考えてみれば、その通りだ、家族の人たちと離れて、特にお正月には寂しい。わたしは昔、貴州省のドゥユェで、似たことを体験した、その時はホテルの職員に誘われて、お正月はその人の家で過ごした。今思い出しても、涙が出るくらい感動する。

 しばらく休憩してから、ナオミと一緒にホテルに向かった。

 ホテルにちょうど二人もいた。彼らと話して、姉が家に招待してくれることがわかった時、嬉しそうな顔をした。

 今日は大晦日なので、午前中は町の店が開いているからまだ買い物ができるけど、午後になってからはみんな店を閉めて家に帰り、めいめいごちそうの用意をする。姉とわたし、ナオミ、そして、Pierreと暁東もみんな一緒に市場へ買い物に行った。

 夜の「団圓飯」は、ダイニングで普通の中華料理をある程度食べてから、客室に移動して今度は重慶火鍋(四川風しゃぶしゃぶ)をはじまる。食事をしている間に、姉の仲間が二人来て、皆でお酒をガンガン飲んだ。Pierreは中国に長い間居たから、中国のお酒を飲む習慣もわりと知っている。暁東も北京っ子で、お酒を飲むことも豪快、ただ量的にはあまり強くない。やがて、Pierreと暁東が酔っぱらい、ナオミはあまりお酒は飲まない。残るはわたしと姉、そして姉の二人の仲間たちで、わたしにとってこんな豪快な飲みかたは久しぶり、今回の「団圓飯」は貴重で面白いと思った。フランス民族、日本民族、漢民族、そして、彜族とチベット族、本当に忘れられない多国籍、多民族の「団圓飯」である。

 次の日は正月一日で、中国では年初一は「不出遠門」(遠い所へいくのが遠慮する)の習慣があるので、わたしたちは一日中、康定でゆっくり二つのお寺を参拝した。

 二日にPierreが塔公へ行きたいと言い出し、姉がわたしたちを連れて塔公寺へ行った、塔公寺へ行く途中、二つのチベット族の家も訪ね、しかもごちそうしていただいた。帰る時、チベット族のアジャラからみやげ(チベット式のお菓子)までいただいて、持って帰った。

 

 

雪域高原から霊感を受けた

 三日に、世界高城理塘を目指す、康定から理塘まで約三〇〇キロで、しかも、四〇〇〇メートル以上の峠を四つも越えなければならない。かなり高い所を走るので、車の調子がよくないと厳しい。それで姉の同僚、同じ公安局に勤める楊さんにお願いしたところ、彼も親戚が理塘に住んでいるので、ちょうどいきたい、と承知ンした。朝八時に出発、第一個目の峠・折多山(標高四二九八メートル)を越えると、ひろびろとした冬の康藏高原が目に入ってくる。なれない人にとっては荒れてものさびしい かもしれないが、わたしにとっては昔生活していたところで、空気が澄んでいるし、冷たい空気の中で頭もすっきりして、こんな気持ちは久しぶり、とうれしくなった。

 理塘に向かう途中、まわりの風景を目にしながら、九五年にカイラスに向かった時の光景(往事)が頭に浮かんできた。その時はパヤン(西チベットにある小さな町)まで行って、川の水位が高かったため、二日ほど待っていたが、車が川を渡れなかった。わたしはほかの仕事があるし、じっと水位が下がるまで待てないので、カイラスまであと二〇〇キロしかないのにと遺憾ながら、あきらめるしかなかった。その時は悔しさ一杯で、いつかきっとカイラスへ行く夢を叶えるぞ、と強く思った。

 途中でPierreと西チベットのことをいろいろ話す中で、彼も一度カイラスへ行きたい、と言った、しかし今の仕事の関係でいろいろ難しくて、行かれそうもない、と。

 わたしたちは途中で写真を撮ったり、住民たちの家を覗いたり、のんびり行動していったので、理塘に着いたのはもう夜だった。晩ごはんは楊さんの親戚の家でごちそうしていただいた。さすが世界高城理塘、みんな疲れたこともあるだろうが、誰よりもからだの丈夫なPierre、強い好奇心をもつ暁東、余り行動しないナオミの三人が全員高山病になって、遊ぶ気分にならないらしく、早く休んだ。わたしも、しばらくバター茶を飲んでから、部屋に戻った。

 翌日、理塘寺を参拝したあと、ゲレ活仏の家を訪ねた。活仏の家のバター茶がとても美味しかった。昼ごはんも同じく楊さんの親戚の家でごちそうになった。 

 Pierreのスケジュールは理塘から中甸へいくので、わたしたちはこれから同じ道で康定に戻る。暁東とナオミが高山病で体調がよくないので、早く康定に戻りたいと言い、いよいよPierreとお別れの時がきた。

 お正月なので、Pierreはあと一週間ほどここで待たなければならない。もしトラックがあれば、早く中甸へ行かれるけれど。

 わたしたちが理塘を出発したのは、午後の二時だった。おばの家へ行きたかったけれど、時間がなかったので、行かなかった。このことはあとからおばに厳しくいわれた。

 お別れをした時、半分冗談の気持ちで、Pierreにこんな話をした「今度一緒にチベット横断をしましょう」と。

 康定に戻る途中、二人は元気がなくてクルマの中で休んで、姉は夢中になって楊さんと話をしていた。わたしは、来る途中と同じ気持ちでカイラスのことが気になり、チベット横断――、チベット横断――、チベット横断について、いろいろ考えはじめた‥‥‥


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年11月19日――――