Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

サキャ寺・仏教芸術の宝庫

第 二 の 敦 煌 薩 迦 寺

 中央チベットの西部、すなわち後蔵では、サキャまで来なければ、この地域を理解したことにはならない。その理由は、ここサキャに七百年まえ、チベットの都が置かれ、政治、経済、軍事、文化、宗教の中心だったからである。チベットを理解しようとする人にとっても、一般の旅行客にとっても、サキャの魅力はとても大きいものがある。

 シガツェから西南へ向かい、峠をこえて六十キロほど走ると、そこがサキャ県の入口だ。チュンジュ河が谷となって流れており、一本の橋がかかる。車をおりて橋の上から、周囲をながめる。谷あいに小さな平地があり、両側から山が迫り、その山の向こうにまた平地が広がるのである。いかにも不思議な地形であり、民謡などにいう「大きく口をあけた花瓶」である。

 サキャの県城に車がはいる。海抜は四千二百メートルあり、印象ではかなり荒涼としている。川岸にはいくらか樹木があるが、それ以外の場所はむしろ草原にちかい。いくらか活気が感じられるのは、壮大な規模のサキャ寺と、郊外に広がるチンコー畑である。寺のなかに、かつてサムエ寺で高僧をしていたドンダンを訪ねた。彼は現在、サキャ寺の復旧作業の手だすけをしている。サキャの歴史について、ドンダンに聞いてみた。

 「クン氏は、敵と味方が結合した産物です」と笑いながらドンダンが話しだした。こちらは当惑してしまう。チベットの古代史のなかで、クン氏は一定の役割を果たしている。ドンダンの話によれば、彼らはもともと、アリ地方に勢力をもつ部落であり、首領の名前はガプンチだった。ガブンチはその祖先がそうしたように、東に西に兵をだして周囲を征服し、自分の領土としていった。ガプンチの軍勢がとうとうサキャまでやって来た。サキャの首領はかなり人望があり、その妻は美貌で知られていた。ガプンチはサキャを征服すると、その首領を殺し、その妻を自分のものとした。やがて二人のあいだには、男の子が生まれた。その名前がクンパチである。このクンパチこそが、「敵と味方が結合した産物であり」、クン(昆)家の始祖であるという。

 いまから約1200年まえ、クン家の子孫はクン・パウギェと名のり、知謀にたけた人物だった。当時のチベットは吐蕃王朝の治世であり、ツェンボ(王)は傑出したティソン・デツェンだった、クン・パウギェは吐蕃の大臣となり、その名声は天下に聞こえた。その息子のクン.ルイェー.ワンポは、チベット史上初めて、集団でサムエ寺で出家した七人のなかの一人である。こうしてクン家は政治上、宗教上で、その影響力を大きくしていき、一代一代と伝承して、現在では五十代を数えている。

 「クン家とサキャ派の関係ですか?それについては、クンチョク・ギャルポのことからはじめなければなりません」バター茶を一口すると、ドンダンはまた話しつづけた。クン家のワンポが出家して、仏法を学び、チベット第一代の仏教学者となった。クン家はその後も、熱心に仏法をひろめた。ワンポから七代目のクンチョク・ギャルポは、訳経僧のドクミを師として、熱心に新たな密教を学んだ。その結果、彼はしだいに旧来の伝統的な密教から離れるようになり新たな密教の経典を大量にチベット語に翻訳したのだった。

 クンチョクは新たな仏法をひろめるために、チユンジェ河をこえてやって来た。まずそこに小さな寺を建てちそれがペギ一ン宮であ二主も遺跡があ二る貝ペギエン宮の門をでたクンチョクが、ふと見あげると、一つの山が目にはいった。その中腹の部分が白くなっていて、印象−的だった。それはあたかも、広びろとした草原に、純白の大きな象が寝そべっているかのようだ。あそこに大きな寺院を建てればきっと仏法はさらに広がり仏光はもっとかがやくだろう、と彼は確信した。土地の有力者からの支持などを得て、クンチョクがそこに寺院の建築をはじめたのは1073年、彼が後世、それが白色(サ)の土地(キャ)に建てられたことから、「サキャ」寺と呼ばれるようになり、地名もサキャとなったのである。

 サキャ寺の規模は大きい。その建築の面積たで5500平方メートルはある。本殿の高さは約7メートルあり、四十本のふとい柱で支えられいる。史書などにはよく、柱108本とあるが、それは誇張である。いちばんふとい柱は、大人が三人がかりで抱えるほどである。そうした柱に「元朝からの贈り物」「トラからの贈り物」「海神か一の贈り物」などと名前がっけられていて、きわめて興味ぶかい。

 サキャ寺の本殿にパスパ(八思巴)の塑像があった。1264年、元朝の世祖フビライは北京に中央政府を樹立した。同時に、9年目にわたりフビライに仕えてきたパスパを「国師」に封じ、全国の仏教関係の事務と、チベット族地区の地方行政とを所管する総制院を設けて、その責任者にしたのである。翌年、パスパは皇帝の命により、チベットにもどってサキャ寺を増築し、そこを地方行政の拠点(一ペンキェン)としたのである。これがサキャ王朝である。これを機に、チベットは正式に元朝の中央政府に統括されることになる。

    
サキャ寺の精美なる壁画   烏里烏沙撮影

 「サキャ寺は、第二の敦煌です」と豪語する案内役のドンダン。彼が次つぎと見せてくれる仏典やタンカ、宝石、陶磁器などを、実際に目のまえにすると、こちらも同感せざるを得ない。サキャ寺に所蔵される経典類はゆうに四万点をこえるという。なかには、きわめて貴重な貝葉経なども含まれる。600年まえに絵がれた数十本ものタンカがある。パスパの生涯を描いたものもあり、色彩はいまも鮮明で、構図は芸術的である。まさに「寺の宝」の数かずである。歴代の皇帝から贈られた法衣や法器など、ほんとうに枚挙にいとまがない。このサキャ寺は、建築そのものが壮大である。しかも、これまでに紹介したように、寺には精美きわまる壁画や、芸術品としてのタンカ、貴重な法衣や法器、骨董的な価値をもつ陶磁器や甲冑類など、万を単位とする経典など、数えきれない宝物がある。それらの時代は、元朝のものを中心とし、明代から清代にかけてである。サキャ寺が全体として、確実に一つの「芸術の宝庫」なのである。それはチベット族、漢族、モンゴル族、満州族のあいだの親密な関係をも物語っている。その多くの芸術品は、それぞれの民族がともに協力し、合作した「結晶」なのである。

チレチュジャ(赤烈曲扎)著 池上正治 訳 


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――――世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――