Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

 

 
チ ベ ッ ト の 宗 教

 

 
・17世ガルパマ・

 

チベット仏教の四大宗教流派

 

 チベット仏教には数多くの宗教流派があります。そのなかの主な四つの宗派、すなわちニンマ、サキャ、カギュー、カダムを四大宗教流派と呼んでいます。ニンマ派は、旧来の浦湾伝承し、それを宣揚することから、旧派とも呼ばれます。僧侶たちが赤い衣冠をつけるので、紅教ないし紅帽派と呼ばれることもあります。ニンマ派は早くにチベットにったえられた密教が、現地のボン教の内容を吸収して形成されたものです。この宗派では、直系の弟子にのみ密教をつたえて、傍系というものをもたないです。このため寺院をつくったり、組織づくりをせず、体系的教義もありませんでした。ニンマ派が紅教としての寺を建てるのは、士世紀になってからのことです。やがて経典とも整備され、宗派としての形式ができあがったのです。パドマサンババ始祖としてあおいでいます。

 サキャ派は、チベットの中央部にあるサキャ寺を中心とし、この地方に大きな勢力をもつことから、その名があります。サキャ派の寺院では周囲の壁部に、赤.白、黒の三色の模様があることから、「花教」とも呼ばれます。この三色は、赤が文殊、白が観音、黒が金剛手の、それぞれの菩薩をあらわしています。サキャ派ができたのは十一世紀のことである。その創始者は、吐蕃からの名家とされるクン(昆)家の末裔のクンチョク・ギャルポです。クンチョク・ギャルポは、父について幼少より、旧来の密教を学びました。その後、訳経僧のドクミを師として、新たな密教を学び、1073年(宋の煕寧6年)、サキャの地に新たな寺院を建てたのでした。クンチョクは当初から、法王の座は自分の家系によってのみ継承されると定めました。このため宗教と政治の二つの権力が、クン家に集中することになりました。一族のなかでも有名なのがサキャ五祖です。その4番目にあたるサハンと、5番目にあたるパスパは、1247年、元朝のグデンがまつ涼州へと赴いています。グデンは元の太祖オゴタイの第二子です。サハンは涼州でグデンと会見し、ウー・ツァンの元朝への帰属の条件について協議したのでした。そのおり、サバンがしたためた「チベットの僧俗に致すの書」はあまりにも有名です。1251年、サハンは涼州で死に、そのホストをパスパが継承することになりますた。

 1253年、帝位につくまえのフビライがパスパに会い、パスパから密教の儀式である灌頂を受けています。1260年には、世祖フビライが即位し、パスパを「国師」に封じました(その後、「帝師」に封じた)。1264年(元の至元元年)、元朝は中央政府のなかに総制院を設けて、全中国の仏教についての事務や、チベットの地方行政を所管するようになりました。パスパは国師と兼任して、総制院の責任者となり、中央政府がチベットを管理することに協力しました。1267年、パスパはフビライの命により、モンゴルの新しい文字を創始し、その功により、「大宝法王」に封じられたのでした。

 カギュー派の「カギュー」とは、チベット語で、教えさとす、教えつたえという意味です。その教えは師匠から弟子への口伝とくしんによるもので、聞いて得心することを重要視パスし、経典はあまり重視しないです。一説によれば、この派の遠い祖とされるマルパやミラレパは、白い僧衣をきて、修行をしたといいます。このことから、カギ一派のことを「白教」化と呼ぶこともあります。宗派を形成するのは14、5世紀になってからであり、傘下にきわめて多くの分派をもっています。当初からの2つの大きな分派は、ジャンパ・カギューとタブ・カギューです。その後、ジャンパ派は姿を消してしまいましたが、タブ派は今日にいたるまでのこっています。

 現在のカギュー派は、このタプ・カギューのことです。その創始者とされるタプラジェは、チベット東南のダクポ(口ンツ県)に生まれた。宋代の著名な仏教学者です。彼は幼少のころから医学を学び、出家したのは26歳のときです。密教と顕教をともに学び、修行して得るものがありました。さらに、マルパの弟子であるミラレパを訪ねて師とし、密教を完全に学んだとされています。その後、ダラカンポ寺で広く弟子を集め、タプ・カギュー派を形成しました。

 弟子のなかでは、カルマ・カギューやパクモド・カギューなどの4人が有名です。彼らは中央チベットの西部を中心とした地区で、さらに多くの弟子を養成しました。例えば、パクモドの傘下からは、さらに八つの小さな宗派が生まれたほどです。それらを総称して、カギュー派の「4大、8小」系統と呼ぶことがあります。

 カダム派は本来、チベットで最初にできた教派です。カダムとは、仏の教え、仏の戒めという意味です。仏の言葉により、人びとに仏の道理を理解させ、人びとを導こうというものです。その創始者とされるドムトンは、1045年、高僧のアティーシャをアリ地区から迎えいれ、師とあおいだといいます。アティーシャの死後、ドムトンはラデン寺を建て、そこを中心にしてカダム派が形成されることになります。この宗派の特徴は、戒律を強調することです。僧侶には戒律と修行を求め、密教と顕教の調整をはかるよう求めます。その教義はアティーシャの著作『菩提道灯論』です。15世紀になると、ツォンカパがカダム派の教義を基礎として、ゲルク派を形成して、その前後に、カダム派はこのゲルク派のなかに吸収されることになりましたのです。

 

 

ボ ン 教

 

 ボン教は、古代チベットにおいて、宗教界の数多くの構成要素の一つ、ボン教徒も聖職者の数多くの種類の一つです。ボン教やボン教徒と並んで、『物語』やその語り手、『謎々』やその歌い手、さらに『人間の宗教』などが勢力を張りあっていたのです。

 この宗教の歴史と特徴は、少なくとも古い時代に関する限り、未知の部分、不明の部分が多いです。この宗教は確かに仏教が入る前からチベットに存在したが、そのことによって直ちにこの宗教が仏教以前のチベットにおいて唯一の宗教ではありません。

 チベット最初の王ニャチは種々の氏族のボン教徒、および種々の国のボン教徒たちに迎えられたが、その前にすでにスムパ族のボン教徒を『従わせて』いたようです。『神の宗教』つまりボン教が出現したと思われるのもこの王の時期です。

 伝説に従えば、ボン教の第二期、すなわち『方向を転じたボン教』のはじまりと考えられています。これは哲学体系に昇格したボン教のはじまりであり、シヴァ派外道の教義に影響されてそうなったものです。最初の時期は『啓示されたボン教』の時期であったが、彼はその時期をトトリ王の一代前の王まで続いだとしています。十六世紀、悪魔崇拝を特徴とするこの『啓示されたボン教』は、ディクム王ののち、すなわち、『天のボン教』の偉大なシェンとボン教の最初の作品とが現われた時期ののちにやっと始まったようです。この『啓示されたボン教』のはじまりについて次のように語られています。中央チベット(ウ)のウン(アムシュ地区)にシェン氏族の子供で、12(あるいは13)歳になる少年がいたが、彼の耳はろぱの耳であった。悪魔がかれをさらって、12(あるいは13)年間合チベットを連れまわした、彼は人間界に戻ったとき、種々の悪魔の名前と悪魔の住む場所とを記憶していた。彼は自分のろばの耳を隠すため、羊毛のターバンを頭にかぶった。実際、このターバンはボン教徒のめじるしになっており、この伝説がその由来を明かす役をしているわけです。

 それ以後、全てのボン教徒がタンバリンとシンバルを携帯し、種々の幻術に熟練したのち、たとえば鹿を空中に歩かせるとか、太鼓にまたがって飛ぶなどということをするようになったといわれます。他方、彼等は次の四種類に分類されます。可見世界のシェンは羊毛のターバンをかぶり、幸運の招来、財産の増加などの儀式を行なっていた。呪術のシェンは種々の色の羊毛のひもを用いて、悪魔をとらえるためにひもの枠組をつくり、過誤のもとをとり除くのを仕事とした。卜占のシェンはひもを用いて、将来の吉凶を予言していた。墓のシェンは武器をもって死者と生者の数を数えるのであった。これら四種の専門家は『原因のボン教』といわれるものを構成した。それと並んで、古代の王たちの時から、すでに『結果のボン教』が発展したのです。

 

同化されたボン教

 ボン教とラマ教は魔術と幻術の競争でこのように対抗しあったが、そのようなことが行われたのも互いに近縁関係にある学派の間においてであった。ずっと以前から同化作用が両方の側から行われた。古い文献の中に列挙されているボン教の専門技術、すなわち糸の枠組、犠牲の菓子、身代りの役をする人形、あるいは殺数的儀式でさえも、全てラマ教の採用するところとなり、『呪術師』すなわちタントラ教徒の仕事となった。その証拠に、ボン教徒という言葉は『タントラ教徒の呪術師』(これはタントラ教徒をさすもう一つの言葉『甥』としばしば混同される)の同義語となっています。

 ボン教徒は仏教を模倣する方策をとった。彼等のつくった聖典集(カンジュールおよびチンジュール)は外国語から翻訳されたようにみせかけています。彼等にはニンマ派と同じような『九乗』があります。また僧院もあるし、ラマ教のものを写しかえた哲学用語、瞑想用語もあます。ただし、聖処を廻るときには、ラマ教徒が時計の針の動きと同じ方向に廻るのに対し、彼等はその逆向きに廻る(まんじについても同様です。ボン教のまんじは時計の針と逆の方向に廻っているのでその反対に廻るラマ教のまんじと区別されます)。

 ボン教徒は『天を愛し』、その当然の結果として、そこに住む〈ム〉神や〈チャ〉神を愛好したと考えています。従って、彼等ラマ教の著述家たちは、神として天から降臨した最初のチベット王ニャチの伝説はボン教徒のものだとします。実際、ボン教徒の諸作品──それは仏教に同化された後期の作品で、ラマ教の伝説と同じものを伝えています。最初の夫婦サンポとチュチャムというのはラン家の系譜にでてくるのと同じです。どの氏族の伝説もそうですが、ボン教徒の師匠の系譜も『光の神々』からはじまっています。それも特にその中の九ないし十の〈ム〉神からはじまるのですが、その総称的名称は天の九階段ないし九階層を思いおこさせます。この系譜はずっと下ってシェンラプ・ミホに至ります。これがチベットのボン教の創始者であり、援助者でもあります。また別の文献によれば、この系譜はインドラを経て、マハーサンマタ王に至ります。

 ボン教徒が『天を愛した』という説はこのように種々の伝説によって裏づけられます。しかし、それはボン教徒が土民の間に盛んに行われていた考え方を受け入れたからだということしか意味しないのかもしれない。一方、シュンラプが天から降る同じ伝説を伝えるある古い作品によれば、ボン教徒の信仰では、最初のチベット人は地下と水底の神から出たとされます。また、ボン教のよく知られた作品でラマ教も一部削除のうえ採用している『ナーガの物語集』と題する書物があります。標題でもわかるように、この作品は人の住む地域に出没する土地神、その中でもとくに水底の神について書いたものです。作品中には、同工異曲の物語が繰りかえし出てくる。家を建てるとか、畑を耕すとかの『文明化』への仕事が大地をかき乱すので、問題の神々が病気を起すのです。ボン教徒だけが病気の原因を発見し、糸や人形でつくった組立物を利用して病気を治すことができます。

 また彼等は、オーム・マニ・ぺーメー・フームと言うかわりに、オーム・マトリ・ムエー・サレー・ンドゥ生言う。ラマ教教会の力は絶えず増大しつづけたが、ボン教の僧院もあちこちに建てられた。その一部は今日も残っているが、特にチベット東部とネパール北部においてそうです。ボン教は過去千年間の歴史において、絶えず聖地、信者、宗教作家、あるいは伝道者さえももちつづけました。これらの伝道者たちはシナ・チベット接境地帯の種々の土着民、それも特にモッソ族やナキ族のあいだで入信者をうることに成功した。ところが、これらの部族の間でみいだされるのも、原始ないし古代のボン教ではなく、ラマ教の一支派に同化されたボン教なのです。


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――――世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2004年5月8日――――