Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

 

青蔵鉄道に乗る

――大岩昭之

 

 日本語版も一時出版されていた「中国国家地理」の(二〇〇六年)六月号は「青蔵―川蔵大比較」一冊全部の特集である。今年の夏(二〇〇六年)は成都から川蔵公路でラサへ、ラサからは青蔵鉄道で帰路を計画したのでこの特集は好都合であった。青蔵鉄道は青蔵公路とほぼ同じルートである。ラサへの鉄道はいろんな意味でも中国政府にとっては悲願であったのだろう。計画案としては四ルートがあった。一案はゴルムドからを延長する青蔵線、二案は甘粛・蘭州の近くの永靖から出て玉樹を通る甘蔵線、三案は雲南の大理からの*蔵線(*・dianは雲南の別称)、四案は成都近くの都江堰から馬尓康、昌都を通る川蔵線であった。結局はゴルムドから青蔵鉄道を延長してラサへのルートが採用された。先程の「中国国家地理」に青蔵公路と川蔵公路の両ルートの標高がグラフで示されているが、これを見ると青蔵公路はゴルムドから高度を上げ崑崙山口(4775m)からラサに近い羊八井(4288m)までは高度はほとんど四五〇〇m以上であるが、それほど高度差の変化はない。これに対して川蔵公路は地震計の針のように高度が変化している。仮にこのルートに鉄道を通すとなれば大変な難工事になるだろう。しかしこのルートはもっとも人口の多いところを通っている。将来は、成都からラサの鉄道も敷設されることだろう。現にラサからの延長として、西はシガツェへ、これは二〇〇七年には着工。東はニンティ(林芝)へ、南はブータンとインドの国境の街ドモ(亜東)までのプロジェクトも始まっている。

九月十六日 この日はいよいよ青蔵鉄道でラサから北京に向かう日である。予定通りではあったが、日本を出た時からすべてOKとなっていたわけではなかった。日本での情報でも、チケット取るのはかなり難しいと聞いていた。今回の案内人も我らの理事長、烏里氏は大丈夫、大丈夫とは言っているが、成都からの川蔵公路の旅行が始まっても、取れたとはなかなか聞けなかった。とにかく手に入ったと聞いたのは、旅程もラサに大分近づいた頃だっただろうか。後で聞いたことだが、中国の旅行社を通しての入手、正規の価格より多少プレミアが付いていたらしい。ちなみにラサ・北京間の一等寝台(下段)は一二六二元、二等寝台(下段)八一三元、二等座席三八九元。最もよく旅行者が利用すると思われる西寧・ラサ間の一等寝台は八一〇元である。なお二等寝台は左右三段、六人のコンパートメント。

青蔵鉄道に乗るのは9/16であったが、実はラサに着いたのは9/9で、九月十三日から蔵北、那曲の先、比如(ビル)まで行っていた。比如に行ったのは達木寺の鳥葬台の骸骨壁を見に行ったのであるが、これは別の機会でもあれば記したい。比如は那曲から川蔵北路に入るので、那曲までの青蔵公路からは青蔵鉄道を見ていた。チャンタン高原はそれほど起伏がないから、鉄路が延々と続いているのが良く見える。線路は盛り土になっているか、高架橋もある。盛り土になっているところも、ところどころ動物の横断のために通路が開けられている。率直な感想を言えば鉄道により環境破壊、又景観破壊のようなことはあまり感じられなかった。私が始めてチベット(ラサ)に行った一九八三年頃では鉄道でラサに行けるなど夢物語であったが、現実に線路が敷かれているのを見ると、何かもうあたりまえのように見えるから不思議である。

朝七時にホテルを出て、軽い朝食を食べてラサ鉄道駅に向かったが、この鉄道駅ラサの市街地図には出ていないのでどこにあるのだろうか。キチュ河(ラサ河)を渡って西に走る、三〇分は乗っていただろうかやっとラサ駅に着いた。駅があるのは柳梧(liu wu)郷。駅に着いたのは七時五〇分頃、八時発なので、ゆっくり駅を見る暇も無い。駅はチベットとは思えないような立派な駅である。荷物を車内に運びこむとやがて列車は動き出した。列車はキチュ河にかかる柳梧鉄橋を渡って北上していく。今回我々は、烏里さん含めて八名だったので、四人用コンパートメント二室かと思っていたが、このチケット入手困難な時にそうもいかないだろう。三室に別れ、中国人の方が一名、一名、二名と混じっていた。私たちの乗ったのは上下二段の寝台が向かいあっている一等軟臥車(寝台車)である。各ベットには液晶の小さなテレビも付いている。上段は多少窮屈ではあるが下段は高さも十分ありゆったりしている。通路にも椅子があり外を眺めるのはこの椅子からの方がよい。

列車の車両はカナダ製でメーカー(ボンバルディア)は航空機・鉄道車両などを作っているとのこと。車両は与圧装置と車内への酸素拡散装置、これで地上の八〇パーセントまでは酸素量を確保しているらしい。それに座席には酸素吸入口が付いている。

食堂車は一両付いている。食堂車は込んでいるとの情報もあったが、乗った時はツアー客は乗っていなかったのか、夕食時の一時を除けば、それほど込んでいなかった。食事は一品二〇元程度、味もまあまあである。私たちは高度にもすっかり順応しているので、お酒も大丈夫、ビールは八元であった。ワインも飲んだが、さすがにアルコール度五〇度もある白酒は飲まなかった。もっとも私たちのグループのラサ組(今回の旅行にラサから参加)の三人は、お酒は我慢して一滴も飲まなかった。駅弁、車内売りもある、これも二〇元。ただしコンパートメントに同室であった中国人若夫婦はいつもカップラーメンを食べていた。一等寝台を奮発しているので倹約するところは倹約しているのだろう。このご主人は公務員とのこと。チベット内での列車の速度は九五kmぐらいである。これは安全運転をしているのだろうか。あるいは景色を良く見せるためのサービス?。列車も蘭州を過ぎたころからは速度一二〇kmを超えている時もあった。

ゴルムドまでの車窓からの眺めはすばらしい。道路(青蔵公路)より鉄道は目線が高いのでよく見える。当雄(ダムシュン)あたりからのニンチェンタンラ、唐古拉(タングラ)からのタングラ山、なお唐古拉駅(5088m)は世界一標高の高い駅である。沱沱河(トトホ)から見る長江の源流、不凍泉あたりの可可西里(ココシリ)、ゴルムドに近づくとコンロン山脈など、車窓からの景色は飽きない。これは列車の車窓からとしては一級品だろう。

西寧から北京まではさらに二十一時間、私たちもこの区間は飛行機にして欲しいとの意見もあったが、結果的にはそれほど退屈はしなかった、西安あたりまでの黄土高原、車窓からも自然条件の厳しさも伺える。列車は九月十八日、午前八時定刻に北京西駅に着いた。

 


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――――チベットカム山岳研究同行会 烏里 烏沙 制作・2007年12月15日――――