Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

 

香格里拉(シャングリラ)を求めて

――利根川 敏夫

 

 白い雪山に囲まれ、きれいな湖のほとりに高山植物が咲き乱れるこの世の理想郷、それが香格里拉だとJames Hilton作の“Lost Horizonモのなかで描かれている。しかし、彼は実際にそのような地を訪れて知っているわけではない。オーストリア系米国人の植物学者ロック博士が70数年前に珍しい植物を求めあちこち歩いた時、出会った素晴らしい感動の土地を”Shangrillaモと名づけて発表した報告を基に小説化したものであるらしい。映画化され、アカデミー賞も受賞し、一気に有名になった、Shangrillaはここで初めて英語の辞書に登場することになった。

 ここで何故、shanngrillaという名が登場したのか、一寸考えてみたい。チベットには古くから知れ渡った言葉として“香巴拉”(シャンバラ)という言葉があった。これはチベット人が求める永遠の不老長寿の楽園である。博士の耳にこの言葉がシャングリラと聞こえShangrillaとspell outされたのではないかというのが有力な1説となっている。ちなみに香格里拉はこのShangrillaの中国での当て字である。浅学の私の説明が間違っていたらご容赦いただきたい。

 博士はそれが何処なのか特定していないのでそれ以降、この香格里拉は一体何処にあるのか長く人々に関心事となってきた。ロック博士が足跡を残した所ならどこでも香格里拉の可能性はある。地元では、先ず中甸市が真っ先に“香格里拉”市と改名して名乗りを上げた。背後に梅里雪山を控え、その入り口にはなっているものの、ここが香格里拉だとは信じがたい。その後、四川省の稲城の奥、洛絨牧場が“最后の香格里拉”として最近では知名度をあげている。仙乃日を始め未登の三座に囲まれた牧場は確かに有力な候補地とはいえるがその確証は未だ無い。テレビの番組で、香格里拉探訪として雲南省のどこかを放映していたが、香格里拉の定義からはほど遠いいやらせ番組であった。

 四川省の措普溝には博士も入っており、措普寺の僧侶との交流があったとの書類が寺に保存されているとの発表は中国のジャーナリスト間で物議を醸し出したようだ。その真偽は別として、現地では未だに“仙境”と名乗って遠慮しているものの景観の実力は香格里拉を名乗れる要素は充分にあると私自身現地を訪れて強く感じた。

 

理想郷への旅立ち

 国勢調査員をたのまれ出発が大幅に伸びてしまったが、10月19日一人で成田を飛び立った。空港で黒色のクラウンに赤い標識灯をつけた警察の幹部車に出迎えられ、翌日には早くも、私と鳥里さん、運転手の3人は川蔵公路にパジェロを乗り入れていた。甘孜洲の州都、康定を経由し、二日後には本旅行の実質的出発点甘孜に到着。ここから、当初の計画では、地図上の岡嗄山の存在を確かめて卓達山口を越し白玉へ入る。ここで麦曲を遡行し雀児山の裏側を探査、そこから地図上でもハッキリしない道を南下して、措普溝に入ろうというものだった。

 出発前夜から雪がしんしんと降り始め朝になっても止む気配は無い。徳格に抜ける雀児山口は既に交通不能との情報が入ったが、卓達山口の情報は不明なので、どこまで行けるか不安ながらジープに荷物をのせ出発した。雪はどんどん深くなりトラックも所々エンコしていた。トラックの踏み跡は滑りやすく細心の注意が必要だが、チベット人の運転手はスノータイヤもチェーンもなしに巧みに4駆を駆ってゆく。強風で真っ白な4300米の山口(峠)に着き、しばらく様子見をするが、雪は全く降る手を緩めてくれない。6月に来た時も雪だったが、その時よりはるかに厳しい状態だ。このまま白玉までは何とかなっても、未知の措普溝までの道が果たして通れるかどうかリスクが大きいので、ここで一旦甘孜に引き返すことにした。甘孜に戻ると、これまで何度か顔をあわせたことがある地元のチベット人ガイドのプェンツォ氏と会うことができ、昼食の火鍋をつつきながら情報交換を行った。このあたりの火鍋は肉より臓物が多く私は口に運ぶのをしばし躊躇させられる。彼は仕事柄最近パジェロの新車に買い替えたばかりでいろいろな新情報をいただけた。その晩と翌朝自宅に招かれる事になり、地図上に表記の岡嗄山について聞いてみたが、彼も彼の父親(元軍の幹部)も聞いたことはないと言う。あとで手に入れた新しい四川省の最新の地図や甘孜州案内図には、岡嗄ではなく貢岬日と変更されているのが判った。もっとも岡嗄と発音は似ているが。地元でもまだ山名が確定していないくらいこの山域は未開発という証拠だろう。夕方、あまりに寒いので厚手のキルティング着を買いに行ったが、同じものが80,100,120,150元と店によってまちまちで、1日に3人客があれば生活はできると言われる中国人の商魂の逞しさを改めて味わされた。

 

 計画変更で、今度は理塘経由で措普溝に入ることになり、翌日も降り止まぬ雪の中を新龍に向かうが、ここまでは6月通過した時とさほどかわらぬ速度で切り抜けられた。前回は新龍に泊まり、死刑執行の判決場面を体験したりしたが、今回は理塘まで足を伸ばさなければならないので、昼食もそこそこに済ませ出発。雪もようやく小降りとなり砂利道を快調にとばす。雅江への分岐を過ぎてしばらくすると、この前建設中だった仏塔群がようやく完成しつつある。こんな辺鄙なところにその日暮しも大変な貧しい人達が資金を集めて進める大事業にはその信心心にただただ脱帽するのみだ。峠の上りに入る少し前にある部落は夏の大洪水で道路は完全に流失、家屋の損害も激しく、仮の道路は水害をまぬかれた家々の間を迂回している。ある家の前まで来ると、通路に大きな丸太を置いて女が二人立っている。彼女らは、猫の額のような畑の中を臨時通路にされ生活が成り立たないと訴えている。鳥里さんと運転手がかわるがわる彼女らをなぐさめ、最後はバナナ1本と五元でしぶしぶ通過を認めさせた。

 峠への上りは雪は積もっているものの理塘から峠越えの四駆が降りてくるので意外に容易に4,300米の峠に立つことが出来た。真っ白な牧場に転々とヤクが展開し、一寸した絵になる風景だ。温泉を通過し、理塘街中から少しはずれた名門家族が経営する民宿に転がり込む。早速大きなモモとバター茶を振舞われたちまちお腹が一杯になる。

 食料を仕入れ、ハルピン餃子と手打ちうどんを平らげ、理塘神山(索絨)のピラピッドを過ぎる頃から天気は回復に向かってきた。しかし今日は未だ雲が多く、マナスルの女性初登攀者、内田昌子さんのご主君が名付けられたジャヌーこと扎弄岬究(5780米)の容姿は全く姿を現してくれない。

 つるつるの上り坂を慎重に上り詰めると、双子の海子湖が、現れる。背後の山は未だ半分雲の中で、未登の夏寨はまったく所在がわからない。 峠を降りると、工事中の悪路に入る。ここから措普溝の分岐点までは胃袋が逆さになりそうだった。現在トンネルと高架橋の工事が進んでいるので、これが完成すれば快適だろう。

 分岐点の一膳飯屋のおやじから措普溝は英国人はもう降りたが、オーストリアの登山学校のインストラクター2人が20日間の予定でまだ入っており、処女峰夏塞の初登頂を狙っているとの話を聞いた。ここから措普牧場まで45キロしかないが、今日は4〜5時間かかるぞと言われたが信じがたかった。

 途中で写真撮影などしたが、牧場の入り口まで本当に4時間かかってしまった。 しかし真っ白な扎金甲博の6000米近い峰峰が眼前に現れた時、思わずこのような場面で中国人がよく口にする“拉索(ラッソウ)が思わず口から飛び出した。

 雪で道路がわからないが雪原を措普寺の方向を目指して進むうち、つるつるの斜面ではさすがの四駆ものた打ち回り、一時はどうなるのかと思った。ここをなんとか乗り越えいくつかの渡渉のあと湖のほとりの樹林帯に入り、夕暮れ寸前に寺に着いた。寺では若い僧が出迎えてくれ、誰も居ない宿坊の二階に通された。シーズン中訪れる客のために床に寝具が何組か用意されている。彼は欧米人は泊まったが、日本人を見るのは初めてと言う。真っ暗になると、大きな部屋の真ん中にはソーラー発電の電灯が一個だけつけられた。 これでもこんな山奥では期待していなかっただけに心温まる思いだった。

 夕食は僧侶が用意してくれた生煮えの飯に油でぐちゃぐちゃの野菜炒めと骨付きヤク肉のスープそれに茹でたジャガイモだったが、鳥里さんからこれは腹をこわすので食べないほうがよいとアドバイスを受ける。

 仕方なく、中国産のカップラーメンとじゃがいもを腹に詰め、不足部分は林檎を齧って夕食は完了。

 寒さが一段と増し、何もやることが無いので早々に寝袋にはいると、昼の疲れかすぐに寝入ってしまった。夜半、野外トイレに行こうと階下に下りたが、外から僧侶がロックしたため外に出られない。困ってがたがたやっていると鳥里さんが起きてきて何とかロックを外してくれた。外は満点の星空。明日は快晴間違いなしとの興奮覚めやらずそれから朝まで長い長いうとうと寝が続いた。

 朝一の写真に期待して寒風に身をさらしたが、湖からの上昇気流でガスが立ちこめ視界が悪い。少しずつ薄れるガスと根競べをしていたが指先がちんちんと痛い。

 生飯に残りのヤクのスープを温めてぶっ掛け飯の朝食後、寺の背後に登ると、未登の秀峰夏塞が頭を出してくる。裏山はぐるりと岩峰群に覆われ、近くにドリューに似た岩峰がそそり立っている。

 陽光に少し寒さも和らぎ、いよいよ車上で世話になった僧侶に別れを惜しみながら湖まで樹林帯を進む。真っ青な湖面を想像していたが、湖面は灰色に反射しながらも背後に雪峰を背負って写真のポーズを取ってくれた。昨日の渡渉点はどこも2〜3センチ位凍結しており、頼もしいわれらの四駆はばりばり音をたてて砕氷船さながら直進する。昨日間違って少し進んだ旧鉱山への道は、現在夏塞村までの延長改修工事が進められていた。 砂利道ながら快適な道をニュージーランド隊のBCを探しながら進んだが、見当たらず、工事人にも尋ねたがとうとうわからずじまいだった。しかし牧場の向こう側に起立する、ムスタークタワーを彷彿させるような哈逮(5,524米)は見ごたえがある。近い将来必ず誰かが挑戦することだろう。牧場周囲の山々の景観を堪能して帰路につくと、営林署のテント村から木の間に雪煙をあげた、無名の岩峰が手招きしている。圧巻である。 

 順調に高度を下げているとニュージーランド隊を迎えに行く四駆とすれ違う。運転手どうしは顔見知りのようだ。分岐点の食堂で遅い昼食をとっていると亭主が夏塞に入山している隊は、オーストリアではなくニュージーランド隊で登頂には成功したらしいとの情報を入れてくれた。しかし、氏名等の詳細は不明。四川登山協会によると登山申請は出されたが、名の通った未登峰にも拘わらず安い許可料しかとらなかったようで内部でもめているらしい。悪路を抜けて海子湖にさしかかると、行きには見えなかった夏塞がご機嫌宜しく我々に挨拶してくれていた。今日はジャヌーこと扎弄岬究も容姿を惜しげなく見せ最高の日だ。すっかり日の暮れた理塘に戻り再び民宿の厄介になる。

 

 夏にはブルーポピーが群生する理塘郊外を離れ、ミニヤコンガから海子山までの山並みの展望に期待して先を急ぐ。しかし、4,800米のカズラ峠からも次の峠からもいつものように雲が邪魔をして期待を裏切られた感じ。雅江は夏の大洪水で郊外はすっかり洗い流され、岩石の間をやっと通り抜ける状態だった。大きな鉄筋コンクリートの建物が無残な姿で川の中まで押し出され洪水のすごさを物語っていた。雅龍江の橋のところは現在高架橋を建設中だが、脆弱な地盤の上に積んだ土台はみるからに頼りなく、これとて抜本的な対策にはならないのではないだろうか。新都橋で、あまりの悪路でクラッチがおかしくなったパジェロを修理した後、逆光の海子山を見るべく道を急ぐ。八美は開発ラッシュのおかげで、新しい飯店にチェックイン。

 油条と豆乳の朝食後、雲の多さを気にしながら、峠を越え、少し下がった海子山北面が真正面に見えるところに着いたときは、北面の上半部はまだ雲の中。今日は急ぐ旅でもないので雲の去就に一喜一憂しながら待機するうちに、北面がやっと8割がた見えるところまで回復してくれ感謝感激、フイルムに収める。

 大金川と小金川が合流して、大渡川になる丹波からは、日本人も殆ど入ったことがないだろうと思われる革什扎河を遡って党嶺を往復する予定で再び悪路との戦いが始まった。 この流域の居住者はこの地方に多い羌族ではなく、裕福なチベット族で、白壁の家の上に家内安全を祈願した三角形の突起を出した独特の建築物の集落を形成している。まるで、西洋のお城のような華麗さだ。しかし、侵略の歴史を物語るように、村の中心には見張り用の古い塔(石楼群)が建っている。がけ崩れの修復工事のため待機などあったが、辺りの紅葉に目を休ませながら、夕刻党嶺の民宿に到着した。ここは丹巴県から模範民宿の認定をうけた家族経営の立派な民宿だ。集落にはお寺と十数軒の家がある。夜は、交歓会をやっているうちに三布からやってきたガイドや集落の民族衣装の美人たちと酒盛り歌合戦になってしまった。

 朝焼けの声に、多少頭痛の残る身を励まし寒空に三脚を据え紫煙を燻らせていると、周りの寒気が体中に浸透しとても我慢が出来ず、カメラを放り出して炊事中のストーブに駆け寄るほど寒かった。凍結で、昨日は四度も落馬した人もいるから気をつけてと言われながら、部落から調達した馬の鞍に跨る。遠くに白菩薩の白い山稜を見ながら、牧場を過ぎると傾斜はどんどんきつくなり、峠へ一時間程のところで(3800米)この先は歩けと馬から下ろされてしまった。生意気な馬方と鳥里さんが大声でやりあうが彼らは梃子でも動かない。ここから1時間ほど上って峠を越すと、another香格里拉かもしれない瓢箪湖に着くはずだが、体調が思わしくない私はここで断念し、鳥里さんだけが民族衣装に身を固めた美人を供に上って行った。後で聞いた鳥里さんの話では、瓢箪湖のさらに奥に神秘な湖があり、そこを目指したが道に迷い断念せざるをえなかったようだ。

 帰路、丹巴に近ずくと白い5千米峰の手前に、町からは見えない丹巴富士が見えてきた。丹波から小金の街をとばして沃日の橋のところまで来ると、運転手が車を停めてどこかに行ってしまった。橋の向こう側には、漢民族風の屋根がある古い建物のそばに石楼群が建っている。やがて運転手はこの町の特産である林檎を買って戻ってきた。鳥里さんの話では中国で一番大きな林檎が出来るのは措普溝の先にある巴塘だが、大きいだけで味は悪く香りだけがとても良いので人々は食べずに家の中に置いて香りを楽しむのだそうだ。

日隆から巴朗峠に向かって少し上がったところの展望台は、正面に四姑娘山、左に挟金山系が展開し我々の足を完全に停めてしまった。何しろ何時も天候に意地悪され拝顔の機会のなかった四姑娘山が目の前で微笑んでくれるなんて何という幸せだろう。しかも峠の上からは四姑娘山の東に展開するチォンライ山系の幻の山々が姿を出しているではないか。 鋭いピラピッド型の岩峰がいくつも聳え、まるで絵を見ているようだ。 旅の最後にこんな貴重な写真が撮れるなんて俺の運命もまだまだ捨てたものではないと心中一人微笑む。成都に戻ると、生憎どのホテルも満杯だ。しかし、鳥里さんの尽力で、日本人では私が始めてであろう、チベット高等裁判所成都事務所の幹部宿泊所に泊めてもらうことになった。部屋は四星ホテル以上でご満悦。

 夜は私の朋友の泊まるケンピンスキーホテルまで制服の武装警官が運転するパトカーで送ってもらう。現地の日本人間で特に人気のある飯店で選んでくれた特別料理に日本から持参の安蔵院焼酎で乾杯を重ねた後、カラオケで夜半まで成都最後の晩を楽しんでから、香格里拉の夢の世界へと入っていった。

 


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――――チベットカム山岳研究同行会 烏里 烏沙 制作・2007年12月15日――――