Home
Next
Gallery
Link
Mail

 

沙魯里山系(甘孜周辺)について

利根川 敏夫

 

 沙魯里山系は、雀児山系の南に展開し(雀児山から一連の岩峰が連続し実際どこが境界かはっきりしない)末端はずっと南の格聶(6204m)或いは仙乃日をはじめとする香格里_の3神山まで続いているとされる。しかし雅竜江を挟んで甘孜の対岸付近はその実態に触れる纏まった資料は存在すかもしれないが、私は未だ目にしたことはない。そこで、この周辺に興味をお持ちの方の参考になればとこれまで入手したもの(2004/10、2005/5, 2005/10,2006/5訪問)を以下に纏めてみました。 まだまだ研究不足で誤りがあればご指摘いただき、逐次訂正してゆきたい。 引き続きどなたか更に調査を進める方が居られれば幸いです。

甘孜

 

これまでの調査の経過

 2004年10月ガンリガルボに入る途中(横浜山岳会二人、どんぐりOB一名)、初めて四川省甘孜蔵族自治区の中心甘孜(但し州都ではない。州都は康定)に寄った時、町の前面に威圧する岩峰に気を引かれた。 この岩峰は、中村保さんが、地図上の岡嗄と指摘されているものではないかと思われる。

しかし、地図に記載されている5688mという高さに疑問を持ち、地元の人に尋ねたところ、異口同音に「岡嗄」なんて山はない。貢嗄(ミニヤコンガ)の間違いではないかと言われた。 彼らは卓達山だと漢字を書いて教えてくれた。この場は時間の都合上それ以上の調査の余裕がなく、疑問を残したまま町を離れざるを得なかった。

 翌年アムドから入って理_に向う時再び甘孜を訪れる機会があった。(1988年、日本の女性で始めて8,000米に登頂成功した内田昌子さん夫妻を含め八人の混成部隊)その時、馬尼干戈と甘孜の中間地点から横からの写真を撮っておいた。(E)この時はスケジュール調整のため、甘孜では1日の休養日があったので卓達山口から見たらどうかと峠にのぼったが、降雪のため、視界悪く無駄足になってしまった。 顔なじみになった金毛賓館ホテルのオーナーからもらった甘孜州旅遊局発行のパンフレットには「岡嗄」ではなく、「岡岬日」(発音的には似ている)と記載されていた。しかし彼も「岡嗄」という名はしらず、又「岡岬日」名の出所についても無知であった。 ただ、それもホテルの前の岩峰ではないと言う。あちこち聞いて廻るうちに、地元の誰彼も岩峰を含めてこの一帯を卓達山と呼称しているらしいのがかろうじて分かった。

 三度目の甘孜は(どんぐりOB一名)、その秋白玉から雀児山の裏側を探る計画での途上であったが、降雪が続き前回よりも状態が悪く、卓達山口に達すのがやっとで手も足も出なかった。 この時、何回か顔をあわせたことがある甘孜生まれで甘孜育ちの地元っ子のガイド松吉氏に会うことが出来いろいろ情報交換をした、。彼はこの山域の全貌が出来るところを知っているらしいので、次回は彼に案内してもらうことにした。

 さて、四度目の正直である(どんぐりOB二名、山岳写真集団「四季」会員一名)。2006年5月4日アムネマチンから、やっと開通したばかりの峠道をいくつも越え横転した4輪駆動を横目に見ながら、扎日用康神山の岩峰を経由してなんとか甘孜入りをする。 第一日は、色達への道路から外れて牧草地の中を横切りタルチョの立つ山系全体が見える絶好の展望台に連れて行ってもらったが雲が多く目的を果たすことは出来なかった。 午後は、この付近で唯一氷河があるところまで案内してもらう。ニューロゴンパの先から卓達溝の中のトレイルを進み、最後の部落まで入ったが、頂上はガスって見えないが氷河が見える。氷河の規模は小さい。 部落の長老に聞くと、ここから氷河まで徒歩で2時間前後らしい。帰途気付いたのだが、溝の入り口には、「沙魯里古氷河」と小さな標識があった。その後、崖上のニューロゴンパに上り、部落の先の小高い丘に立つともっとよい氷河の見晴台を発見した。(D)

 翌朝、朝食もとらずにこの展望台に駆けつけるとようやくカメラの出番がやってきた。 撮影も一段落して、地元の牧童に氷河の上の山の名前を聞くと、その答えはなんと聞く度に違う発音に戸惑ってしまった。。

  1、ドラ

  2.チョーセラ

  3.チョーセデュイ

どう聞きなおしても、これらの名前に共通性が見出せない。

 

 沙魯里氷河の主としてこの山を沙魯里山と仮称したい気持ちだったが、しかし、四川省の市販の地図では「岡嗄」の位置は曖昧だが、10万部の一の地図をよく見ると「岡嗄」の記載されている位置は丁度ニューロン寺の真南になっているのでこの氷河のピーク(5,688m)が所謂「岡嗄」ではなかろうかと推定される。しかし、松吉氏や地元に詳しい彼の元軍人の父親もそんな名前の山は聞いたことはないと否定されてしまった。

 町への中間点まで戻ると、谷間の奥に、大げさに言えば、コンコルディアから見たK2見たいな堂々たる山が見える(A)。松吉氏は卓達山だと言う。(写真の位置から考えると、卓達山の手前のピークということもありある)

 町に戻りブランチを食べた後は、雲の出ないうちにと卓達山口へと急ぐ(C)。やっと着いた快晴の峠には喜びと気抜けが同時にやってきた気分だった。

充分にカメラを働かせ、帰路は白玉方面に下り、卓達山をぐるっと回り新龍への路の合流点に向かいつつ、喀_老熱((5,992m)が見えることを期待したが、結果はゼロ。この道は荒れてはいるが何とか通過できたが、視界は良くない。

 3日目は満天の星空に今度こそと飛び起き、色達方面の最初の展望台(D)へ急いだが、今日は運良く待ちに待った快晴で、雲が出る前に一連の山並みをパノラマとしてカメラに収めることができた。 山群に対する位置がこれまで訪れた他点より左に寄っているためこれまでの印象と多少違和感があった。

 

結びとして

 数少ない資料で決論じみたことを書くのは僭越なので、自分の主観的な観点から発言させてもらい、本稿の結びとしたい。

 先ず、甘孜方面から、卓達山口に向かって左側の岩峰は卓達山と呼ぶのは誰も異論はなかった。 問題は、町の正面の岩峰である。この岩峰は街から見ると一体に見えるが左右別々の岩峰が重なっている。 地元でその前衛の山の名前は知っていても、肝心の岩峰になると誰も答えられない。 せいぜい卓達山と言う位である。 前述のように、この一体をさして地元では「卓達」と言っているようだ。

 しかし、こんな立派な岩峰に固有名詞がないなんてとても信じられない。どうもこの山は曲者だ。地元でのヒアリングでは、「南多山」と言う名も出たが、どの山か特定できていない。 多分、南多郷に近い山だろう。 とすると、正面の岩峰の名前では? 研究不足で舌足らずの文章になったことはゆなめないが、いずれにせよ、この山塊には無名で未踏の5,000以上の岩峰が十数座もあり、今後の研究発展が待たれるところだ。

 これら4回の現地入りは、元四川登山協会員であり、チベット初等教育・学校建設基金会理事長の鳥里鳥沙氏に同行をお願いした。同氏や現地の松吉氏らの協力に改めて謝意を表したい。

 


秘境探険

峨眉山、螺髻山そして濾沽湖

烏里 烏沙

 

 峨眉山と螺髻山、そして濾沽湖はそれぞれつながりがないが、なんか、三つとも女と関わっている。

 文字通り、女の蚕蛾の眉のようにきれいな峨眉山に対して、螺髻山は女の螺髻のように美しい、古代中国にはそういうヘアスタイルの美人が多かった。一方、濾沽湖とはモソ語で山奥にある湖を意味しているけれど、実は女とのつながりも深いのである。

 いままで峨眉山を唄える詩が多かったし、交通の便利もあり、峨眉山は昔から、道教や仏教の聖地としてよく知られ、また中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)や中国四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)の一つにもなっている。

 中国古代の文章に螺髻山と峨眉山はよく「姉妹」として喩えられる。姉のほうがいろいろな「チャンス」に恵まれて、世に知られるようになったが、妹はそのまま秘境で静かぁにくらしている。

 地理上の螺髻山は、漢民族の生活エリアではないため、一部の文学者や研究者を除き、知られるようになったのがつい最近のことである。この地域は彝族が集まり住んでいるところなので、宗教の違いによって、峨眉山みたいに宗教の聖地にならなかった。これは、その周辺の彝族の住民たちが自分の信仰を持ち、道教、仏教などの宗教をここに入れなかったとも言えるだろう。

 それに、二十世紀の前半まで、螺髻山地域はまだ奴隷制社会で、漢族の勢力が全く及ばなかったことは、あそこが知られないもう一つの理由と考えられる。奴隷制社会の時、黒彝という奴隷主階級に仕える奴隷階級には、黒彝に捕まった漢族がその一部で、大部分は古代に黒彝に征服された彝族の奴隷であった。彝族に襲われたり、売られたりした漢族奴隷の悲惨な状況を目にし、悲しい訴えを耳にした民族研究者が少なくない。

 濾沽湖も女と関係があるというのは、ここは今日までも母系社会制度を保持して、かよい婚という独特の習俗が残っている。それは、男子は嫁をもらわず、女子は嫁がず、各自が母の家に住み、走婚式の婚姻関係のことである。家庭では、年長の婦人が尊重され、中心となって家事を切り回し、「奇異な母系王国」と称されている。

 なぜ濾沽湖湖畔に住むモソ人だけが古い社会形態を保持しているのかは謎だけれども、この地域はまわりから隔絶され、アクセスの不便なところだというのが確かである。

 峨眉山は国際的な観光地になっているとはいえ、自然が大切に護られ、中国の植物宝庫の一つとして知られている。ハンカチノキをはじめ、絶滅危惧種を含む約三千種の植物がある。

 標高四三五九メートルの螺髻山は、第四紀の古氷河の天然博物館とも呼ばれて、昔から螺吉山系に「三十六天池」という説がある。規模が大きな古山岳氷河遺跡がここに数多く残されて、最近の調べによると大小氷河湖は五十以上があるという。また、螺髻山は動植物の宝庫でもある。特に鳥類は四川省の三分の一を占め、高等植物は百八十余科、二千余種にのぼり、天然の植物園とも言われている。

 もっとその南に位置する濾沽湖は、四川省と雲南省の境にあり、両省共有のものだけれども、雲南省側の観光業が北の四川省より進んでいるため、雲南省にあると思われがちである。濾沽湖は雲南省側ではほとんど観光化されているけれども、四川省側ではわりと昔のままの雰囲気が体験できる。これからはどうなっていくだろう。


東チベットの秘境の旅

アジア最深部・ チャンタン高原と横断山脈の奥地をゆく(1)

利根川 敏夫

 

 青蔵公路、川蔵南路と北路に挟まれた地域には未開の険しい念青塘古拉山脈東部が横たわっているため、一般にはほとんどその存在は知られていない。この地域は、色浦崗日(セブガンリ)、6,980mを盟主として無数の氷河を抱いた6,000m級の山々がひしめいている。そのほとんどは未踏峰で、部分的にしか解明されておらず高い秘境性が保たれている。

 この山脈の南部に足を入れて以来、北側に入れる日を一日千秋の思いで待ちわびていたが、許可証などの問題でなかなか実現せず切歯扼腕していた。その後、鳥里の粘り強い交渉で夏頃に何とか入域許可証がとれそうだとの情報に小躍りして実行準備に取り掛かった。 しかし、ある地域だけは許可証がとれず、最悪許可証なしでも行こうと相談していたところ、出発ぎりぎりにこの問題も解決し、10月6日、鳥里、永倉(女)、中島そして私の4人で機上の人となった。

 計画では、四輪駆動車2台使用の予定だったが、メンバーが減ってしまったため1台に予定変更になり秘境の旅としては不安があったが、そんな不安も、まだ見ぬ世界への期待感ですっ飛んでしまった。

 北京、成都経由でラサに入ったあと、山南地区やラサ周辺で高度順応の期間中、私は極度の貧血で酸素不足になり、軽い高山病に悩まされ、この間ホテルで休養を余儀なくされたが、出発予定日には何とかなるだろうと楽観視して、馴染みの洛桑(ローサン)の運転に身を任せ四駆は東に向かって出発した。

 許可証の条件は、ラサから那曲経由で最初の秘境である嘉黎(ジャーリー)に入ることになっていたが、情報が少ないものの嘉黎への直行ルートの方が時間節約できるし面白そうなので早々にルート変更する。これが後で問題になるのだが。

 川蔵南路を東進し、墨竹工カから分岐し、しばらく川に沿ってゆるい上り路をたどる。道は奥に入るにしたがって道標のない二股が多くなり、ローサンの感でどんどん進む。本日標高最高5,000mの峠の下にたどり着くと、戸数数個の集落あり、天幕の簡易食堂で麺をすすり小休止。食後、じぐざぐを繰り返し、たどり着いた峠は雪とタルチョだけの無愛想な峠で、展望も取り立てて記すようなものはなかった。この峠を下ると荒涼とした高原をひた走る。夕暮れ前から雪が降り始め、進むにつれ降雪は激しくなってきた。

 自分でも北米で経験したが、雪の降る中ライトを頼りに走るのは運転手の神経を相当消耗させる長いドライブにうんざりした頃、シャッターの閉まった嘉黎についたが体はぼろぼろだった。

 ラサ滞在中、ほんの一口、二口程度の食事しかとれなかったため、今日の長時間の悪路は本当にきつかった。何ものどを通りそうもないので、酸素が私の夕食代わりとなった。

 宿は“嘉黎賓館”という名前は立派だが、水道水は出ず、バケツの水がすべてという典型的なチベットの宿泊所だ。しかも、水洗便器の上には“請勿大便”との張り紙があり、必要なときは、近隣のアパート前のトイレまで行かなければならない。

 翌朝窓の外には朝日に燦然と輝く白い岩峰が、消耗した私を励ましてくれていた。用心のため、この日は休養日とさせてもらうことにしたが、結果的にはこれは正解だった。本隊は、道を間違えたり、公安に見張られたりして何も成果はなかったようだ。

 嘉黎の周辺は、チベットのマッターホルンと言われる“カジャチョ”という岩峰や最高峰“色浦崗日”があり、これらの姿を求めてさらに奥地に入る許可は出発前にとってあったが、条件は嘉黎へは那曲を経由することになっていたのにスキップしたのを咎め公安はどうしても首を立てに振らない。そこで那曲公安の許可があれば文句なかろうと、翌日、鳥里、運転手の2名が、那曲日帰りというウルトラCを演じ頭の固い公安を沈黙させた。

 おかげで今日は公安の監視もなく、易貢措方面に向かって東に道をとる。嘉黎から30分ぐらい走ると小規模の発電所があり、その先に放牧をする小さな集落がある。ここで中島がストップをかける。左岸から谷が合流し、20万分の1の地図上ではこの奥に唯一カジャチョが見えるところがあるはずと言う。

 雲が多く視界はよくないが、確かに薄っすらと岩峰群が見える。レンズの性能を信じてシャッターを切る音が続く。谷間であまり展望のよくない谷を進み、橋を三度渡り返すとパッと視界が開けどうやら忠玉の部落らしい。ここまで嘉黎から約100キロである。

 谷の正面に格好のよい“ラオチェ”と地元民が呼ぶ山があり、その下で谷は二股に分かれ、右は易貢措(イーゴンツオ)、左は辺パへ通じる霞曲のはずである。道はこの集落までで、あとは河原を徒歩で進むしかない。

 この集落は山奥にしては比較的裕福そうで、どこかの援助で建てたのであろうが立派な小学校がある。うどんを作ってもらい、遅い昼食をとる。外は、岩峰の下の樹林に雲の間から光が差し紅葉をライトアップし行きとのコントラストが素晴らしい。 

 夕暮れの道を辿るうちに月が上がり白い峰にかかる風景にカメラを向けたが出来栄えはまったくNG。

 初日に道を間違って行った湖の先には、山脈南側の部落朱拉に通じる峠があるはずなので、今日はそのルートを探りに出発。雪原を走り山に近づくに従い雪が深くなり進めなくなった。しかも視界が悪くなりルート発見も困難なので踵をかえすと、左右に雲間から白い岩峰が顔を出してきた。 大よそ5,500m前後の山であろう。

 地図上では辺パ(ベンパ)に至る道が記されているが、前述のように実際には道はなかったので、嘉黎に四泊したあと那曲に向かって北上する。嘉黎の町外れで燃料補給に寄った政府系のスタンドは開いておらず。やむを得ず近くのスタンドで給油せざるを得なかった。 しかしこれが災いし、その後エンジンの調子を狂わせることになった。民間のスタンドはや安いが、中には何かを混ぜた粗悪品を売るものもいるらしい。

 那曲までは運転手にとっては勝手知っている道、奇岩の山、緩やかな山容の山々を撮りながら気楽な旅を楽しむ。遊牧民のテントを訪ねたりして北上すると、やがて青蔵公路にぽっこり飛び出す。そして間もなく青蔵鉄道の那曲駅が見えてきた。

 駅周辺には大きな建物の建設が進んでおり、これらは物流拠点になるそうだ。町の規模は大きいがなんとなく落ちつきのない街並で、ほとんど道路標識がないため運転者には不親切な街だ。

 ホテルのボーイは多少の日本語、英語ほかいくつかの外国語がはなせる。鉄道開通で外国人訪問を当て込んでホテルや人材に選考投資をしたのだろうが、途中駅では観光客は降りずあてが外れたのではなかろうか。おかげで今夜はバスタブにゆったりと身を沈めることができた。

 

 

東チベットの秘境の旅

アジア最深部・ チャンタン高原と横断山脈の奥地をゆく(2)

利根川 敏夫

 

 那曲からは川蔵南路を東に進む。北路に比べると道路は格段に悪い。比如との分岐点間で半分ほど進んだ頃公安により道路に遮断機がおろされていた。ここでは運転手に何のかんのと言いがかりをつけて罰金を徴収しているらしい。支払いを拒否するといつまでも出発できないので、正義感の強い短気なわが運転手もやむを得ず200元払い遮断機を開けてもらった。 そうこうしているうちに、五体投地を繰り返しながらやってくる巡礼団と出会った。比如(ビールー)近くの村からやって来たようだ。比如へと街道を右折すると道路はますます悪くなる。左右の雪をいただく山々の間を縫ってすすむと、小高い丘の上に建った髑髏寺がある。 ここで車を止め壁に埋め込まれた髑髏撮りにゆくことになったが私は遠慮させてもらう。 鳥葬で残った頭蓋骨を寺の壁に埋め込むというこの地方独特の風習らしい。 寺の周辺で撮影を楽しんでいると、白いBMWの四駆がやってきた。 話をしているうちに一人は、この地区の共産党委員、もう一人は小学校の校長とわかった。 戻ってきた鳥里が基金会の話などしているうちに、彼の小学校を見れくれと誘われる。

この学校は、生徒数312人、教師26人で、授業は週32時間、その教育内容は中国語6時間、チベット語6時間、その他は2時間が多いが、特筆すべきは、外国人がほとんど来ないこんな山奥でも英語授業4年生までは2時間、5,6年生は4時間と英語授業の比率が高い。 日本では、小学校5年から英語を義務化することで騒いでいるが、これからの国際化社会を考えると文部省の役人には耳が痛いことだろう。 教室はきれいで、楽器のそろった音楽室まである。生徒たちの躾は厳しく、外に出ると生徒たちがきちんと整列して私たちに手を振って歓迎の意を示してくれていた。 私たちは即興で“さくら、さくら“を合唱してこれに応えた。 学校では本が不足しているので寄付をしてもらえれば有難いとの要請があった。

学校を後に比如の街に向かったが、以外に距離があり、到着した時はあたりは夕闇に包まれていた。 

比如までは、人の往来は多いが、この先はやっと道路が開通したばかりで、人の往来はぐっと少なくなる。 20万分の1の地図を見ると、等高線が重なり合って真っ黒になっており、この先の難路を想像するに難くない。ここから辺パ間では強行軍でないと一日では着かない。 早朝に発ち、強行して夜半に辺パに着く特急の四駆が客を乗せて発っていった。 これまでこの先に日本人が入った記録は見たことがなく、私たちが初めてではないだろうか。 街を離れて谷沿いに進むと、道はどんどん狭くなり、やがて一気に千米駆け上る峠に差し掛かる。 断崖絶壁の道は所々凍結して緊張をせまられたが、無事峠に着く。 “ラッソウ”素晴らしい雪山が展開する景観に恵まれた峠だ。  

天上のドライブを続け、発電所の建設現場を過ぎると、今日最後の急な峠にさしかかる。 足下には上ってきた道が谷間に見え、この上りの急峻さを示している。色浦崗日の姿を求めたが、無常な雲が視界を遮っていた。 峠を下りると、辺パまでのほぼ中間地点にある白嗄の部落だ。街の中を通り抜ける道は水溜り多く、そこに流れ込んだ生活廃棄物に栄養源を求めて牛や犬がうろうろしている。今宵の宿は、運転手と同郷という尼差が営む軽喫茶にやっかいになることになった。 バター茶と芋麺小椀だけ提供する店だが、偶に訪れるチベット人の客で何とか保っているような店だ。 尼さんはチベット騒動で投獄され、その後インドに逃れたがそこの生活に馴染めず、Uターンしてここに落ち着いたという苦労人。 まだ20歳後半で、やっと20歳ぐらいの女性を雇って二人だけで暮らしている。

夜になり客足が途絶えると、客用のソファーが私たちのベット代わりになりどうにか身を横たえることはできたが、問題はトイレ。なんせ、街中にはどこにもトイレはなく、唯一建設中の小学校の運動場の先端はで歩かなければならない。距離は約数百米もあり、その途中には野良犬が徘徊しており、いつ襲われるかわからない。

今日はいよいよ色浦崗日の姿がみえるかもしれないとの期待を胸に街を離れてまず後輪がパンク。 スペア−タイヤーに取替え、昨日の峠への分岐を過ぎて、間もなくすると羊秀村が見えてきた。 橋を渡り対岸に移ると谷の奥に向かっての高巻きルートを進む。 時折白い峰が右岸の奥に顔を出すが、天気が変わる前に目的地に着きたいのでノンストップで走り続ける。 しかし、天は無常。 悪路で今度は前輪がパンク、しかも予備タイヤーはない。 近くの民家に四駆があったので、予備タイヤーも持っているかもとの期待で門をたたくが結果は捕らぬ狸の・・・であった。 仕方なくそろそろ車を動かして行くと対岸に大きなゴンパが見えてきた。道の先にはヒューム管を積んだトラックが2台悪路にはまりこんでいる。 このトラックから空気をわれらの車に移そうとする運転手を残し、カメラを持って斬進するとゴンパの先で右岸から合流す谷の奥にアムネマチンのような山容の白い峰が雲間に薄っすらと見えてきた。すわ色浦崗日と雲間に隠れる前にと夢中でシャッターをきる。 地元民も、あらは色浦崗日だと言う。 しかし、私の目には入らなかったが、さらに奥にうっすらと尖った岩峰が一瞬見えたらしく、これが色浦崗日だろうと皆は言う。その後、残念乍ら、このピークは再び姿を現すことはなかった。

苦労して、折角トラックから移した空気が抜けないうちにと、昼食をそこそこに帰途を急ぐことになる。しかし、道路工事用のショベルカーに道を塞がれて待機しているうちに空気は底をついてしまった。 近くの民家に救いを求めると、自転車の空気入れを貸してくれたが、まったく歯が立たない。 偶々通りかかったバイクの運転手から2輪車用の空気入れを借り、交代でポンプを動かしているうちに何とか走れる位までタイヤーが膨らんできた。 最悪、山中でビバークかな等と話していたが、これでどうにか谷を脱出できるかもと、祈る気持ちが神に通じたのか羊秀村までたどり着いたところでダウン。 またバイクのエアーポンプで空気を充填し、どうにか白嗄村まで辿りつくことができた。 苦労の一日だったが、日本人で色浦崗日を目にしたのは我々が初めてではないかと思うと充実した一日だった。

 

 

 

東チベットの秘境の旅

アジア最深部・ チャンタン高原と横断山脈の奥地をゆく(3)

利根川 敏夫

 

 昨夜からの小雪もやんで、3泊世話になった白嗄を後に今日は辺パ入りの日だ。 大きな峠一つといくつかの小さい峠を通過し夕暮れ前に新辺パに到着。

街中はしっかりした舗装道路の両脇に、典型的な中国式商店の建物ができているが、まだ空家も多く見受けられる。 橋を渡って対岸にある電信賓館に宿をとったが、混んでおりどうしても一部屋足りない。 鳥里の交渉で、オーナー専用のスイートルームを特別に空けてもらい、永倉女史の居城になる。

 朝路上に出てみると、ラサ出発以来初めて見るごみ収拾車が走り、ごみ清掃員が路上を掃いていた。 チベット自治区のこんな田舎で、街中をこれほどきれいにしているのを見て感心した。 同じ県庁所在地でも、那曲とは比較にならないほどきれいにしている。

 やっと探した小店で、おかゆと小籠包の朝食をとったあとこの旅のハイライトの一つ、普玉村の奥に鎮座するコナ3山を目当てに旧辺パ方面に出発。 旧辺パまで40分、メイン通りは、すべてリフォーム中で、宿も食堂も見当たらなかった。 川の左岸に合流する谷へ入るべく右折してすすむと小さな橋があり、その手前に人影がない別荘が十数個建っていた。 懐豊かな電信会社の建築物で、何のために建てたのかはっきりしない。 公費の無駄使いはどこかの国とよく似ている。

川原沿いの道は暫くすると、左岸を高巻くようになる。 道路からでは見えないがこの奥には“普玉色3湖”というのがある。 水面の色がそれぞれ黄、赤、青い路をしているといわれているが、裏磐梯の五色沼とは比べ物にならない色彩だ。 道が再び川原沿いになると、普玉の集落は目の前だ。 しかし山は厚い雲に遮られ視界がきかないので、集落の中をぶらぶら写真を撮って歩く。

気がはやる中島は、対岸の草もみじの中を谷の二股近くまで往復するが谷の奥には何も見えずに引き返す。 その時草もみじのトレールがあるのを発見。これが明日役立つことになる。

何時まで待っても天候は好転する気配もないので、この日は重いあしどりで踵を返すことになる。 新旧辺パの間には棚田が広がっているので、ここで憂さ晴らしにカメラの餌食にする。 棚田は傾斜もゆるく、比較的ゆったりとしているので、牛に鋤を引かせて耕作をしている。 子供の頃を思い出させる懐かしい光景だ。

一夜明けると、昨日より天気はましだ。おかゆと肉饅の朝食もそこそこに出発。街はずれのガソリンスタンドに入ると、行く手に昨日は見えなかった三角錐の白いピークが顔をだしており今日最初のカメラのお出ましとなる。五千米級の山の間を抜け、普玉への橋のところまで来ると、雲間にコナ峰1峰と峰がうっすらと顔をだしており思わず快やを叫びたくなる、 はやる気持ちを抑えつつ普玉の部落に着くと、流れの浅そうなところを渡渉、草紅葉の中を二股に向かってまっしぐら。 仮小屋を過ぎデブリの山のところで車はストップ。皆は右股を氷河に向かって出発したが、私はデブリの山の上を谷の中央に向かって進むと、氷河からの流れにぶつかりデブリの山はすとんと切れていた。よく観察すると、デブリの末端と流れのかすかな間隙をぬってトレールを発見。早速ローサンに連絡し、迂回してこのトレールに入れる道を探してもらう。ここを抜けると、何とか氷河に向かって進むと、やがて徒歩隊が見え、合流したところで素晴らしい景観の中で昼食となる。 コナ泄と峰が正面氷河奥にうっすらと鎮座し、泄のヒマラヤ襞がまぶしい。 。峰は残念ながら右側の岩峰に隠れて対面出来なかったが峰左側のピークがその埋め合わせをしてくれた。この稜線の反対側は、易貢措に通じる氷河だろうと思うと、2度もチャンスをつぶされた易貢措が思い出され、いつの日か3度目の訪れをねらいたいものだ。

踵をかえすと、今度は陽がさしてきた左股の奥にコンガ峰があらわれ、カメラはフル稼働だ。 腹八分目の満足度ながら、今日の成果に、これまでセーブしてきたビールで乾杯、平凡な夕食もとても美味く感ぜられた。

辺パを後に拉牧の集落までくると、天気は機嫌が悪く谷の奥の山や氷河はまったく見えない。 路端の農家では一家総出で、チンコウ麦の脱穀作業をしていた。 回転棒でたたいたり、籾を飛ばしたりしている光景は、子供の頃の日本の農業とよく似ており懐かしさを感じた。

待っても回復の気もないヨムドンの谷をあきらめ、ここから一気に高度上げ峠に出る。 峠からは多少ましな視界を期待していたが、ここも五十歩百歩でたいした成果なく、風の強い峠をそこそこに洛隆(ローロン)に向かう。 いくつかの峠を越えるが、これまでと違ってゆるやかで牧歌的な高原が続く。どこかに波蜜に通じる峠道があるはずだと注意していたが見当たらなかった。 

洛隆は、このあたりでは大きく県庁所在地として古くから存在していたが、なんとなくまとまりのない街だ。 メイン道路は、朝清掃員が掃いているが、夕方には見栄えのしない薄よごれた町並みになっており、あまり居心地の良い町ではない。

洛隆で一夜を過ごすと、この冒険の旅も終り今晩は昌都(チャムド)でゆっくり風呂に入れると思うとこれまでの緊張感はすっかり薄れていた。 いくつかの峠を越え、今日で一番きつい峠を紅葉を楽しみながら下ると谷間が狭まって両岸が高い岩壁に囲まれたゴルジュ地帯に入る。 青空は真上を見上げないと見えず、首が痛くなる。 このゴルジュ帯を抜けると間もなくメコン川が合流してき、しばらくすると川蔵公路に飛び出した。 ここからは勝手知ったる道、峠を二つ越えて夕暮れの昌都に入った。

昌都から成都までの航空券を手に入れるのに2日かかり、3日目は昌都最後の日で、ちょうど私の誕生日とぶっつかった。 昌都最高の西洋レストランの看板を掲げた店を選んでいただいたので、てっきり今晩はおいしいワインでステーキかなと期待していたら、なんと卓上に現れたのは中華料理ではないか。普段あまりお目にかかれないメニューの料理をいただき、食事もそろそろ終わりに近ずいた頃、白とピンクの桃型の饅頭が出された。 ああこれは誕生日のための饅頭だろうと有難くいただいた。 がしかし、その後、超特大のバースデイケーキがでてきたのにはびっくり仰天。なんせ既に腹はパンパンどうしたものか? 

私の誕生日は10月末で、現役時代からチベットの山めぐりまで、現地で誕生日を迎えることが多い。 多分10数回はあったと思う。 どこでも周りの人たちの暖かいもてなしを受けたが、その中で3つが特に印象深い。 最初は、大連で、レストランを貸切で数十人の祝福を受けたこと、二番目は梅里雪山が月に輝く夜で、飛来寺の客桟で梅里雪山を肴に3人で白酒を5本も飲むほど盛り上がったとき、そして今回の超特大ケーキだ。

宴も終り外に出ると雪になっていた。 たいしたことはないだろうと思っていたが、これで成都が遠くなってしまうとは誰も思っていなかったろう。 翌朝、白一色の道を時間に遅れないようにと昌都・邦達(パンダ)に急行したが、なんと空港入口の門は閉ざされているではないか。 空港周辺には時間をすごすような所はどこにもないので、邦達の町に行き、食堂のあまり暖かくないストーブにかじりついて時間を過ごすが事態はまったく改善しなかった。 その夜はこの食堂の2階にある宿泊所に泊まることになった。

翌日も事態は変わらず。なんせ成都からの便が来ないので、空港には一機も飛行機はない。 明日の予想も厳しく、このままでは最悪国際線のチケットが無効になりかねないので、苦肉の一策、通常3日行程の成都までの陸路を一昼夜で駆け抜けようとなり、邦達を後に雲南への道を飛ばすことになった。 休みなしにとばし左貢(ゾーゴン)を過ぎると遮断機が下ろされ運転手たちが右往左往しているではないか。 この先は通行不能となっている由。 残された選択肢は、いつ飛ぶかわからないが、又飛行機に頼らざるを得ないと重い足取りで邦達まで引き返すことになった。 しかし、チケットは払い戻しをしてしまったので、再度チケット入手は可能かどうか甚だ心もとない。

もう一晩食堂の2階に泊まり、早めに空港に駆けつけると、今日は既に多くの乗客が詰め掛けていた。 成都からの回送便がこちらに向かって発ったとの情報が入ると、チケットの発売が開始された。 しかし、我々同様スタンバイの客がたくさんおり、果たして無事チケットを入手できるか甚だ心もとない。ここでまた鳥里の交渉力で、VIP用にキープしてあるファーストの席を条件付で押さえてくれた。 若し、急用のVIPが離陸前に来ると、席は彼らに優先され我々は乗れないことになる。

心の中で、マニ車を回して祈ったのが功を奏したのか、幸いに無事搭乗してドアーが閉まるまでハプニングは起こらなかった。 飛行機が離陸して大きく旋回するとこのたびのフィナーレにふさわしく他念翁の山々がにっこり微笑みこの旅の成功を祝福してくれた。

追記:機内で新聞を見ると、このたびの雪はチベット各地で大きな被害をもたらし、多くの人命や家畜が失われ救援隊が出動したと報じていた。

 


青蔵鉄道に乗る

大岩昭之

 

 日本語版も一時出版されていた「中国国家地理」の(二〇〇六年)六月号は「青蔵―川蔵大比較」一冊全部の特集である。今年の夏(二〇〇六年)は成都から川蔵公路でラサへ、ラサからは青蔵鉄道で帰路を計画したのでこの特集は好都合であった。青蔵鉄道は青蔵公路とほぼ同じルートである。ラサへの鉄道はいろんな意味でも中国政府にとっては悲願であったのだろう。計画案としては四ルートがあった。一案はゴルムドからを延長する青蔵線、二案は甘粛・蘭州の近くの永靖から出て玉樹を通る甘蔵線、三案は雲南の大理からの*蔵線(*・dianは雲南の別称)、四案は成都近くの都江堰から馬尓康、昌都を通る川蔵線であった。結局はゴルムドから青蔵鉄道を延長してラサへのルートが採用された。先程の「中国国家地理」に青蔵公路と川蔵公路の両ルートの標高がグラフで示されているが、これを見ると青蔵公路はゴルムドから高度を上げ崑崙山口(四七七五m)からラサに近い羊八井(四二二八m)までは高度はほとんど四五〇〇m以上であるが、それほど高度差の変化はない。これに対して川蔵公路は地震計の針のように高度が変化している。仮にこのルートに鉄道を通すとなれば大変な難工事になるだろう。しかしこのルートはもっとも人口の多いところを通っている。将来は、成都からラサの鉄道も敷設されることだろう。現にラサからの延長として、西はシガツェへ、これは二〇〇七年には着工。東はニンティ(林芝)へ、南はブータンとインドの国境の街ドモ(亜東)までのプロジェクトも始まっている。

 九月十六日 この日はいよいよ青蔵鉄道でラサから北京に向かう日である。予定通りではあったが、日本を出た時からすべてOKとなっていたわけではなかった。日本での情報でも、チケット取るのはかなり難しいと聞いていた。今回の案内人も我らの理事長、烏里氏は大丈夫、大丈夫とは言っているが、成都からの川蔵公路の旅行が始まっても、取れたとはなかなか聞けなかった。とにかく手に入ったと聞いたのは、旅程もラサに大分近づいた頃だっただろうか。後で聞いたことだが、中国の旅行社を通しての入手、正規の価格より多少プレミアが付いていたらしい。ちなみにラサ・北京間の一等寝台(下段)は一二六二元、二等寝台(下段)八一三元、二等座席三八九元。最もよく旅行者が利用すると思われる西寧・ラサ間の一等寝台は八一〇元である。なお二等寝台は左右三段、六人のコンパートメント。

 青蔵鉄道に乗るのは九月十六日であったが、実はラサに着いたのは九月九日で、九月十三日から蔵北、那曲の先、比如(ビル)まで行っていた。比如に行ったのは達木寺の鳥葬台の骸骨壁を見に行ったのであるが、これは別の機会でもあれば記したい。比如は那曲から川蔵北路に入るので、那曲までの青蔵公路からは青蔵鉄道を見ていた。チャンタン高原はそれほど起伏がないから、鉄路が延々と続いているのが良く見える。線路は盛り土になっているか、高架橋もある。盛り土になっているところも、ところどころ動物の横断のために通路が開けられている。率直な感想を言えば鉄道により環境破壊、又景観破壊のようなことはあまり感じられなかった。私が始めてチベット(ラサ)に行った一九八三年頃では鉄道でラサに行けるなど夢物語であったが、現実に線路が敷かれているのを見ると、何かもうあたりまえのように見えるから不思議である。

 朝七時にホテルを出て、軽い朝食を食べてラサ鉄道駅に向かったが、この鉄道駅ラサの市街地図には出ていないのでどこにあるのだろうか。キチュ河(ラサ河)を渡って西に走る、三〇分は乗っていただろうかやっとラサ駅に着いた。駅があるのは柳梧(liu wu)郷。駅に着いたのは七時五〇分頃、八時発なので、ゆっくり駅を見る暇も無い。駅はチベットとは思えないような立派な駅である。荷物を車内に運びこむとやがて列車は動き出した。列車はキチュ河にかかる柳梧鉄橋を渡って北上していく。今回我々は、烏里さん含めて八名だったので、四人用コンパートメント二室かと思っていたが、このチケット入手困難な時にそうもいかないだろう。三室に別れ、中国人の方が一名、一名、二名と混じっていた。私たちの乗ったのは上下二段の寝台が向かいあっている一等軟臥車(寝台車)である。各ベットには液晶の小さなテレビも付いている。上段は多少窮屈ではあるが下段は高さも十分ありゆったりしている。通路にも椅子があり外を眺めるのはこの椅子からの方がよい。

列車の車両はカナダ製でメーカー(ボンバルディア)は航空機・鉄道車両などを作っているとのこと。車両は与圧装置と車内への酸素拡散装置、これで地上の八〇パーセントまでは酸素量を確保しているらしい。それに座席には酸素吸入口が付いている。

食堂車は一両付いている。食堂車は込んでいるとの情報もあったが、乗った時はツアー客は乗っていなかったのか、夕食時の一時を除けば、それほど込んでいなかった。食事は一品二〇元程度、味もまあまあである。私たちは高度にもすっかり順応しているので、お酒も大丈夫、ビールは八元であった。ワインも飲んだが、さすがにアルコール度五〇度もある白酒は飲まなかった。もっとも私たちのグループのラサ組(今回の旅行にラサから参加)の三人は、お酒は我慢して一滴も飲まなかった。駅弁、車内売りもある、これも二〇元。ただしコンパートメントに同室であった中国人若夫婦はいつもカップラーメンを食べていた。一等寝台を奮発しているので倹約するところは倹約しているのだろう。このご主人は公務員とのこと。チベット内での列車の速度は九五kmぐらいである。これは安全運転をしているのだろうか。あるいは景色を良く見せるためのサービス?。列車も蘭州を過ぎたころからは速度一二〇kmを超えている時もあった。

ゴルムドまでの車窓からの眺めはすばらしい。道路(青蔵公路)より鉄道は目線が高いのでよく見える。当雄(ダムシュン)あたりからのニンチェンタンラ、唐古拉(タングラ)からのタングラ山、なお唐古拉駅(5088m)は世界一標高の高い駅である。沱沱河(トトホ)から見る長江の源流、不凍泉あたりの可可西里(ココシリ)、ゴルムドに近づくとコンロン山脈など、車窓からの景色は飽きない。これは列車の車窓からとしては一級品だろう。

西寧から北京まではさらに二十一時間、私たちもこの区間は飛行機にして欲しいとの意見もあったが、結果的にはそれほど退屈はしなかった、西安あたりまでの黄土高原、車窓からも自然条件の厳しさも伺える。列車は九月十八日、午前八時定刻に北京西駅に着いた。

 


香格里拉(シャングリラ)を求めて

利根川 敏夫

 

 白い雪山に囲まれ、きれいな湖のほとりに高山植物が咲き乱れるこの世の理想郷、それが香格里拉だとJames Hilton作の“Lost Horizonモのなかで描かれている。しかし、彼は実際にそのような地を訪れて知っているわけではない。オーストリア系米国人の植物学者ロック博士が70数年前に珍しい植物を求めあちこち歩いた時、出会った素晴らしい感動の土地を”Shangrillaモと名づけて発表した報告を基に小説化したものであるらしい。映画化され、アカデミー賞も受賞し、一気に有名になった、Shangrillaはここで初めて英語の辞書に登場することになった。

 ここで何故、shanngrillaという名が登場したのか、一寸考えてみたい。チベットには古くから知れ渡った言葉として“香巴拉”(シャンバラ)という言葉があった。これはチベット人が求める永遠の不老長寿の楽園である。博士の耳にこの言葉がシャングリラと聞こえShangrillaとspell outされたのではないかというのが有力な1説となっている。ちなみに香格里拉はこのShangrillaの中国での当て字である。浅学の私の説明が間違っていたらご容赦いただきたい。

 博士はそれが何処なのか特定していないのでそれ以降、この香格里拉は一体何処にあるのか長く人々に関心事となってきた。ロック博士が足跡を残した所ならどこでも香格里拉の可能性はある。地元では、先ず中甸市が真っ先に“香格里拉”市と改名して名乗りを上げた。背後に梅里雪山を控え、その入り口にはなっているものの、ここが香格里拉だとは信じがたい。その後、四川省の稲城の奥、洛絨牧場が“最后の香格里拉”として最近では知名度をあげている。仙乃日を始め未登の三座に囲まれた牧場は確かに有力な候補地とはいえるがその確証は未だ無い。テレビの番組で、香格里拉探訪として雲南省のどこかを放映していたが、香格里拉の定義からはほど遠いいやらせ番組であった。

 四川省の措普溝には博士も入っており、措普寺の僧侶との交流があったとの書類が寺に保存されているとの発表は中国のジャーナリスト間で物議を醸し出したようだ。その真偽は別として、現地では未だに“仙境”と名乗って遠慮しているものの景観の実力は香格里拉を名乗れる要素は充分にあると私自身現地を訪れて強く感じた。

 

理想郷への旅立ち

 国勢調査員をたのまれ出発が大幅に伸びてしまったが、10月19日一人で成田を飛び立った。空港で黒色のクラウンに赤い標識灯をつけた警察の幹部車に出迎えられ、翌日には早くも、私と鳥里さん、運転手の3人は川蔵公路にパジェロを乗り入れていた。甘孜洲の州都、康定を経由し、二日後には本旅行の実質的出発点甘孜に到着。ここから、当初の計画では、地図上の岡嗄山の存在を確かめて卓達山口を越し白玉へ入る。ここで麦曲を遡行し雀児山の裏側を探査、そこから地図上でもハッキリしない道を南下して、措普溝に入ろうというものだった。

 出発前夜から雪がしんしんと降り始め朝になっても止む気配は無い。徳格に抜ける雀児山口は既に交通不能との情報が入ったが、卓達山口の情報は不明なので、どこまで行けるか不安ながらジープに荷物をのせ出発した。雪はどんどん深くなりトラックも所々エンコしていた。トラックの踏み跡は滑りやすく細心の注意が必要だが、チベット人の運転手はスノータイヤもチェーンもなしに巧みに4駆を駆ってゆく。強風で真っ白な4300米の山口(峠)に着き、しばらく様子見をするが、雪は全く降る手を緩めてくれない。6月に来た時も雪だったが、その時よりはるかに厳しい状態だ。このまま白玉までは何とかなっても、未知の措普溝までの道が果たして通れるかどうかリスクが大きいので、ここで一旦甘孜に引き返すことにした。甘孜に戻ると、これまで何度か顔をあわせたことがある地元のチベット人ガイドのプェンツォ氏と会うことができ、昼食の火鍋をつつきながら情報交換を行った。このあたりの火鍋は肉より臓物が多く私は口に運ぶのをしばし躊躇させられる。彼は仕事柄最近パジェロの新車に買い替えたばかりでいろいろな新情報をいただけた。その晩と翌朝自宅に招かれる事になり、地図上に表記の岡嗄山について聞いてみたが、彼も彼の父親(元軍の幹部)も聞いたことはないと言う。あとで手に入れた新しい四川省の最新の地図や甘孜州案内図には、岡嗄ではなく貢岬日と変更されているのが判った。もっとも岡嗄と発音は似ているが。地元でもまだ山名が確定していないくらいこの山域は未開発という証拠だろう。夕方、あまりに寒いので厚手のキルティング着を買いに行ったが、同じものが80,100,120,150元と店によってまちまちで、1日に3人客があれば生活はできると言われる中国人の商魂の逞しさを改めて味わされた。

 

 計画変更で、今度は理塘経由で措普溝に入ることになり、翌日も降り止まぬ雪の中を新龍に向かうが、ここまでは6月通過した時とさほどかわらぬ速度で切り抜けられた。前回は新龍に泊まり、死刑執行の判決場面を体験したりしたが、今回は理塘まで足を伸ばさなければならないので、昼食もそこそこに済ませ出発。雪もようやく小降りとなり砂利道を快調にとばす。雅江への分岐を過ぎてしばらくすると、この前建設中だった仏塔群がようやく完成しつつある。こんな辺鄙なところにその日暮しも大変な貧しい人達が資金を集めて進める大事業にはその信心心にただただ脱帽するのみだ。峠の上りに入る少し前にある部落は夏の大洪水で道路は完全に流失、家屋の損害も激しく、仮の道路は水害をまぬかれた家々の間を迂回している。ある家の前まで来ると、通路に大きな丸太を置いて女が二人立っている。彼女らは、猫の額のような畑の中を臨時通路にされ生活が成り立たないと訴えている。鳥里さんと運転手がかわるがわる彼女らをなぐさめ、最後はバナナ1本と五元でしぶしぶ通過を認めさせた。

 峠への上りは雪は積もっているものの理塘から峠越えの四駆が降りてくるので意外に容易に4,300米の峠に立つことが出来た。真っ白な牧場に転々とヤクが展開し、一寸した絵になる風景だ。温泉を通過し、理塘街中から少しはずれた名門家族が経営する民宿に転がり込む。早速大きなモモとバター茶を振舞われたちまちお腹が一杯になる。

 食料を仕入れ、ハルピン餃子と手打ちうどんを平らげ、理塘神山(索絨)のピラピッドを過ぎる頃から天気は回復に向かってきた。しかし今日は未だ雲が多く、マナスルの女性初登攀者、内田昌子さんのご主君が名付けられたジャヌーこと扎弄岬究(5780米)の容姿は全く姿を現してくれない。

 つるつるの上り坂を慎重に上り詰めると、双子の海子湖が、現れる。背後の山は未だ半分雲の中で、未登の夏寨はまったく所在がわからない。 峠を降りると、工事中の悪路に入る。ここから措普溝の分岐点までは胃袋が逆さになりそうだった。現在トンネルと高架橋の工事が進んでいるので、これが完成すれば快適だろう。

 分岐点の一膳飯屋のおやじから措普溝は英国人はもう降りたが、オーストリアの登山学校のインストラクター2人が20日間の予定でまだ入っており、処女峰夏塞の初登頂を狙っているとの話を聞いた。ここから措普牧場まで45キロしかないが、今日は4〜5時間かかるぞと言われたが信じがたかった。

 途中で写真撮影などしたが、牧場の入り口まで本当に4時間かかってしまった。 しかし真っ白な扎金甲博の6000米近い峰峰が眼前に現れた時、思わずこのような場面で中国人がよく口にする“拉索(ラッソウ)が思わず口から飛び出した。

 雪で道路がわからないが雪原を措普寺の方向を目指して進むうち、つるつるの斜面ではさすがの四駆ものた打ち回り、一時はどうなるのかと思った。ここをなんとか乗り越えいくつかの渡渉のあと湖のほとりの樹林帯に入り、夕暮れ寸前に寺に着いた。寺では若い僧が出迎えてくれ、誰も居ない宿坊の二階に通された。シーズン中訪れる客のために床に寝具が何組か用意されている。彼は欧米人は泊まったが、日本人を見るのは初めてと言う。真っ暗になると、大きな部屋の真ん中にはソーラー発電の電灯が一個だけつけられた。 これでもこんな山奥では期待していなかっただけに心温まる思いだった。

 夕食は僧侶が用意してくれた生煮えの飯に油でぐちゃぐちゃの野菜炒めと骨付きヤク肉のスープそれに茹でたジャガイモだったが、鳥里さんからこれは腹をこわすので食べないほうがよいとアドバイスを受ける。

 仕方なく、中国産のカップラーメンとじゃがいもを腹に詰め、不足部分は林檎を齧って夕食は完了。

 寒さが一段と増し、何もやることが無いので早々に寝袋にはいると、昼の疲れかすぐに寝入ってしまった。夜半、野外トイレに行こうと階下に下りたが、外から僧侶がロックしたため外に出られない。困ってがたがたやっていると鳥里さんが起きてきて何とかロックを外してくれた。外は満点の星空。明日は快晴間違いなしとの興奮覚めやらずそれから朝まで長い長いうとうと寝が続いた。

 朝一の写真に期待して寒風に身をさらしたが、湖からの上昇気流でガスが立ちこめ視界が悪い。少しずつ薄れるガスと根競べをしていたが指先がちんちんと痛い。

 生飯に残りのヤクのスープを温めてぶっ掛け飯の朝食後、寺の背後に登ると、未登の秀峰夏塞が頭を出してくる。裏山はぐるりと岩峰群に覆われ、近くにドリューに似た岩峰がそそり立っている。

 陽光に少し寒さも和らぎ、いよいよ車上で世話になった僧侶に別れを惜しみながら湖まで樹林帯を進む。真っ青な湖面を想像していたが、湖面は灰色に反射しながらも背後に雪峰を背負って写真のポーズを取ってくれた。昨日の渡渉点はどこも2〜3センチ位凍結しており、頼もしいわれらの四駆はばりばり音をたてて砕氷船さながら直進する。昨日間違って少し進んだ旧鉱山への道は、現在夏塞村までの延長改修工事が進められていた。 砂利道ながら快適な道をニュージーランド隊のBCを探しながら進んだが、見当たらず、工事人にも尋ねたがとうとうわからずじまいだった。しかし牧場の向こう側に起立する、ムスタークタワーを彷彿させるような哈逮(5,524米)は見ごたえがある。近い将来必ず誰かが挑戦することだろう。牧場周囲の山々の景観を堪能して帰路につくと、営林署のテント村から木の間に雪煙をあげた、無名の岩峰が手招きしている。圧巻である。 

 順調に高度を下げているとニュージーランド隊を迎えに行く四駆とすれ違う。運転手どうしは顔見知りのようだ。分岐点の食堂で遅い昼食をとっていると亭主が夏塞に入山している隊は、オーストリアではなくニュージーランド隊で登頂には成功したらしいとの情報を入れてくれた。しかし、氏名等の詳細は不明。四川登山協会によると登山申請は出されたが、名の通った未登峰にも拘わらず安い許可料しかとらなかったようで内部でもめているらしい。悪路を抜けて海子湖にさしかかると、行きには見えなかった夏塞がご機嫌宜しく我々に挨拶してくれていた。今日はジャヌーこと扎弄岬究も容姿を惜しげなく見せ最高の日だ。すっかり日の暮れた理塘に戻り再び民宿の厄介になる。

 

 夏にはブルーポピーが群生する理塘郊外を離れ、ミニヤコンガから海子山までの山並みの展望に期待して先を急ぐ。しかし、4,800米のカズラ峠からも次の峠からもいつものように雲が邪魔をして期待を裏切られた感じ。雅江は夏の大洪水で郊外はすっかり洗い流され、岩石の間をやっと通り抜ける状態だった。大きな鉄筋コンクリートの建物が無残な姿で川の中まで押し出され洪水のすごさを物語っていた。雅龍江の橋のところは現在高架橋を建設中だが、脆弱な地盤の上に積んだ土台はみるからに頼りなく、これとて抜本的な対策にはならないのではないだろうか。新都橋で、あまりの悪路でクラッチがおかしくなったパジェロを修理した後、逆光の海子山を見るべく道を急ぐ。八美は開発ラッシュのおかげで、新しい飯店にチェックイン。

 油条と豆乳の朝食後、雲の多さを気にしながら、峠を越え、少し下がった海子山北面が真正面に見えるところに着いたときは、北面の上半部はまだ雲の中。今日は急ぐ旅でもないので雲の去就に一喜一憂しながら待機するうちに、北面がやっと8割がた見えるところまで回復してくれ感謝感激、フイルムに収める。

 大金川と小金川が合流して、大渡川になる丹波からは、日本人も殆ど入ったことがないだろうと思われる革什扎河を遡って党嶺を往復する予定で再び悪路との戦いが始まった。 この流域の居住者はこの地方に多い羌族ではなく、裕福なチベット族で、白壁の家の上に家内安全を祈願した三角形の突起を出した独特の建築物の集落を形成している。まるで、西洋のお城のような華麗さだ。しかし、侵略の歴史を物語るように、村の中心には見張り用の古い塔(石楼群)が建っている。がけ崩れの修復工事のため待機などあったが、辺りの紅葉に目を休ませながら、夕刻党嶺の民宿に到着した。ここは丹巴県から模範民宿の認定をうけた家族経営の立派な民宿だ。集落にはお寺と十数軒の家がある。夜は、交歓会をやっているうちに三布からやってきたガイドや集落の民族衣装の美人たちと酒盛り歌合戦になってしまった。

 朝焼けの声に、多少頭痛の残る身を励まし寒空に三脚を据え紫煙を燻らせていると、周りの寒気が体中に浸透しとても我慢が出来ず、カメラを放り出して炊事中のストーブに駆け寄るほど寒かった。凍結で、昨日は四度も落馬した人もいるから気をつけてと言われながら、部落から調達した馬の鞍に跨る。遠くに白菩薩の白い山稜を見ながら、牧場を過ぎると傾斜はどんどんきつくなり、峠へ一時間程のところで(3800米)この先は歩けと馬から下ろされてしまった。生意気な馬方と鳥里さんが大声でやりあうが彼らは梃子でも動かない。ここから1時間ほど上って峠を越すと、another香格里拉かもしれない瓢箪湖に着くはずだが、体調が思わしくない私はここで断念し、鳥里さんだけが民族衣装に身を固めた美人を供に上って行った。後で聞いた鳥里さんの話では、瓢箪湖のさらに奥に神秘な湖があり、そこを目指したが道に迷い断念せざるをえなかったようだ。

 帰路、丹巴に近ずくと白い5千米峰の手前に、町からは見えない丹巴富士が見えてきた。丹波から小金の街をとばして沃日の橋のところまで来ると、運転手が車を停めてどこかに行ってしまった。橋の向こう側には、漢民族風の屋根がある古い建物のそばに石楼群が建っている。やがて運転手はこの町の特産である林檎を買って戻ってきた。鳥里さんの話では中国で一番大きな林檎が出来るのは措普溝の先にある巴塘だが、大きいだけで味は悪く香りだけがとても良いので人々は食べずに家の中に置いて香りを楽しむのだそうだ。

日隆から巴朗峠に向かって少し上がったところの展望台は、正面に四姑娘山、左に挟金山系が展開し我々の足を完全に停めてしまった。何しろ何時も天候に意地悪され拝顔の機会のなかった四姑娘山が目の前で微笑んでくれるなんて何という幸せだろう。しかも峠の上からは四姑娘山の東に展開するチォンライ山系の幻の山々が姿を出しているではないか。 鋭いピラピッド型の岩峰がいくつも聳え、まるで絵を見ているようだ。 旅の最後にこんな貴重な写真が撮れるなんて俺の運命もまだまだ捨てたものではないと心中一人微笑む。成都に戻ると、生憎どのホテルも満杯だ。しかし、鳥里さんの尽力で、日本人では私が始めてであろう、チベット高等裁判所成都事務所の幹部宿泊所に泊めてもらうことになった。部屋は四星ホテル以上でご満悦。

 夜は私の朋友の泊まるケンピンスキーホテルまで制服の武装警官が運転するパトカーで送ってもらう。現地の日本人間で特に人気のある飯店で選んでくれた特別料理に日本から持参の安蔵院焼酎で乾杯を重ねた後、カラオケで夜半まで成都最後の晩を楽しんでから、香格里拉の夢の世界へと入っていった。


チャンタン高原のテントの寺院

大岩 昭之

 

 『西藏研究』(1991年1期)に「羌塘草原上帳篷寺テ――柏爾貢巴」2ページの論文が載っていた。テントの寺院らしいが、どこにあるのだろうか。羌塘はqiang tang、チャンタン高原にあるらしい。しかし、写真は出ていない。チベットのテントの寺院についてはほとんど文献にも出てこない。モンゴルでは一部テントにしている寺院の写真(現在は無いようである)を見たがチベットではどのようなものだろうか。しかも文献では80根(80本の支柱)と記載されている。見てみたい。我らのNPO理事長、烏里さんに話したところ、ツアーを組みましたので行きましょうとの話があった。「魅了するチベット・チャンタン高原の最奥地へ」、タイトルがよかったのか総勢8名。チベット初めての方も多く、ちょっと心配な面もある。

 8月25日(2002年)ラサにいた。テントの寺院があるとされるのはラサの北方、約450H、那曲(ナクチュ)の先、チャンタン高原の安多(アムド)。

 8月26日 頼んであるランクルがなかなか来なかったが9時30分、3台に分乗してラサを出た。北に向かいチャンタン高原を走る。途中左側に連山が見えていた。たまに民家もあるが、紅い周りの土と同じ色、日干レンガ造か建物は低く、環境の厳しさが伺える。夜遅く安多に着く。

8月27日 寺院のあるのは安多の東50km、灘堆(タンドォイ)郷である。安多からは少し幹線を走ったがまもなく山の道(草原)に入る。そしてこの道は工事中であった。工事中といっても勿論舗装をしているのではない。轍の跡を確認しながら進むのだが、目指す寺院はたまに出会う人に聞いてもはっきりしない。実は安多で老人達に聞いても、聞いたことはあるが、見たことはないとの話だったので、本当にあるのだろうかと心配になってくる。そして同行のS.G.さんは、かなり具合が悪い。短い期間で高度を上げてきているので皆も大分高度障害が出てきている。心配していた事だが、具合が悪い何人かを乗せた一台の車は通訳共にラサに戻って行った。

 今日は、難堆まで行く予定であったが、その手前でキャンプにすることにする。ただ一台の車だけはとにかく行ってみようということで、同乗する。道は相変わらず悪い。しばらく行くと前方に集落らしいのが見える。しかし運転手は道が悪く今日は行くのは無理だという。仕方なく確認できないままキャンプ地に戻った。テント・サイトはチャンタン高原、遊牧民のテントが近くにポツン一つあるだけのところ、他には360度見渡しても何もない。ただし水場となる小さな池はある。高度は4800m。テントの寺院はかなり建替えられているらしいとの情報は入る。

 8月28日 夜中はかなり寒く、それに高山病の影響でよく眠れなかった。朝起きたら、外気は−4℃であった。テントは夜露が凍ってバリバリしている。しかし、先程の池はなぜか氷は張っていない。昨日途中まで行った悪路を再度進む。道は悪いので本当に行けるのかまだ心配である。とうとう集落らしいところに近づいた。しかし、寺院らしい大きな建物は見えない。ついに集落に着いた。お坊さんがいる。ここは間違いなくペェリー・ゴンパ(be riユ gong pa・柏カケア巴)である。柏カとはこの集落の名前である。ガイドはお寺を見せてもらうよう交渉している。周りにはたくさんの僧侶たちが集まってきた。なにせ日本人は初めて、外国人が来るのもほとんど初めてのところである。交渉も成立し寺院内に入る許可がでた。改めて周囲を見ると、日干しレンガ造だろうか、粗末な平屋の僧坊が周りに建っている。それにチョルテン(仏塔)、そしてテントのお堂があった。約15.3m×10mの長方形の白いテント、3本の支柱のあるテントの経堂である。中は僧侶が座れるように長くマットが敷いてある。その隣に繋がるように丸い径5mほどのテントの仏殿。普通のテントでない証拠に頂きに宝瓶(ほうへい)が見える。ここでは4人のラマが、お経をあげていた。そして小さな菩薩像。その横に経典の棚があった。天井中央には天窓があり、この造りはモンゴルのゲルと同じである。ただし、このゲル(仏殿)には中央にしかりとした柱(角柱)があった。モンゴルのゲルの場合は天井(天窓)部分を2本の細い柱で支える。このようにしっかりした柱を使っているのは、このゲルが固定式仏殿の証である。しかし、80本の支柱のあるテントの大経堂はなかった。聞けば十年程前にテントの経堂の横にあるコンクリート造のお堂に立て替えたとのことである。後でこの中にも入ったが、ガランとして殺風景なものであった。残念ながらテントの大経堂は、どんなものであったかは、分からなかった。

文献によるとこのテント寺院の創建は1654年、350余の歴史があり、一度も石積壁、木などで建替えられることはなかったといわれている。以前あった黒色の大テント経堂は200名の僧侶が勤行できたとのことである。そして周りには僧坊用の小テントが四重にも取り囲んでいた。ここの部落は数百年前に青海省・玉樹から移って来た人々である。ところで、なぜテントの寺院が造られたのだろうか。チャンタン高原は環境が厳しい。もちろん森林などはない。ここでは木材を手に入れるのは大変なことであっただろう。そして建築材料となる石もない。寺院が必要となれば天幕で造らざるえなかったに違いない。もっとも全てがテントで造ったわけではないようである。例えば那曲地区の夏丹寺は、最初は簡単なテント寺院であったが、その後次第に発展していき、石積・木材を使い、1842年の増築の時には48本の柱、三層の経堂が造られたと文献には記されている。又、当然ではあるが、移動できる大きなテントの寺院もあった。

一通り見終えた後で、一棟に招かれたが、ここのラマたちは非常に友好的であった。バター茶をしきりにすすめる。飲むと又、注ぎ足してくれる。聞けば、現在40余の僧侶がいるとのことである。若い少年僧もいた。ところで寺院の周りには遊牧民のテントが多く張られていた。明後日、お寺で大きな法要があるとのこと。近隣の遊牧民が集まっていたのである。この地域では今でも、寺院は精神的な大きな支えなのであろう。なお安多は、現在工事中の青蔵鉄道が通るところである。今あるテントの寺院もいつまであるか分からない。

8月29日 今日はナムツォ(ナムツォ湖)まで行く予定であったが、夜の八時になってしまったので、当雄に泊まる。

8月30日 ナムツォ湖で日の出を見ようということで当雄を朝5時30分に出発、ナムツォには7時頃には着いた。今の季節、雨季なので心配していたが、よく晴れている、ニンチェン・タンラ峰(7162m)がよく見えていた。湖畔には遊牧民の黒いテントがあった。

ラサに戻る途中で羊八井寺(ヤンバーチェン・ゴンパ)に寄った。羊八井は温泉がある事でも知られている。寺院は温泉のある所から少し離れて、シガツェに行く道沿いにあり、寺院の背後に登るとなかなか景色のいいところである。羊八井寺は15世紀末に創建されたカルマ・カギュ派紅帽派の主寺であった。[大岩昭之著『チベット寺院・建築』(東京堂出版)2005.9]に掲載

 

 

It is a group that enjoys the mountain that the Tibet cam mountains research club founded on July 20, 2005.
本サイトに掲載の記事・写真・図表などの無断転載を禁止します。